お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Dream Mother Had(母の見た夢)

 徳大寺の唯蓮坊が、「摂取不捨」とはどういうことなのか知りたいと思って、雲居寺の阿弥陀仏に祈願しました。すると、夢の中に阿弥陀仏が現れて、唯蓮坊の衣の袖をしっかりととらえ、逃げようとしても決してお放しにならなかったのだそうです。この夢によって、摂取というのは、逃げるものをとらえて放さないようなことであると気づいたといいます。蓮如上人はこのことをよく例に引いてお話しになりました。[ 蓮如上人御一代記聞書 (現代語版)]


 上の文のように、御一代記聞書の中には、他にもいくつか夢の話が出てきますが、その中で、「夢というのは概して妄想であるが、仏や菩薩の化身であるお方は、夢に姿をあらわして教え導くということがある」と書かれているところがあります。上の文では、阿弥陀仏が直接夢に現れて教え導かれたのでしょう。
 ところで、私には母が見たというどうしても忘れられない夢の話があります。それは、私が中学生の頃ですから、母は30代後半のことでした。ある、のっぴきならぬ事情から、母は人里離れた山小屋にどうしても一晩、しかも一人で泊まらなければならないことになりました。山の奥深い所にある一軒家ですから、当然電気など通っているはずもありません。私が母の立場であったとしても、とうてい一人で泊まることなどできないと思います。
 案の上母は「こわいなあ。よわったな。どうしよう。」と、言い続けていました。ところが、父方の祖母は日ごろ念仏を称え、お寺参りをするなど信心深い人であったためか、そんなことは平気でした。それで母の様子を見かねて、「怖いことなんかあるものか。阿弥陀さんと一緒だったら怖いことなんか絶対にない。そんなに怖ければ、このお絵像さんを持って行って一緒に寝てみなさい。」と、阿弥陀仏の絵像を母に持たせたのです。
 母はとても勇気づけられたのでしょう。祖母の言うことを信じて、くるくると巻いた絵像をしっかりと胸に抱いて、山小屋での一夜を迎えたのでした。次は母から聞いたことをまとめたものです。
 「こわい、こわい」と思いながらうとうと眠りについたとき、母は夢を見ていました。山の中のでこぼこ道をガタガタ走る荷車に乗っているのです。すごい速さで上下に、左右に、ガタン、ガタンと大きく揺れ、今にも落ちそうになるのを必死にこらえて、「あ〜あ、こわい、こわい、助けて、助けて」と、叫び続けていました。するとその時、目の前にさん然と輝く阿弥陀仏の姿が、さあーっと現れたのです。それは絵像そのものの阿弥陀仏で、後光が差し、それは、それは神々しい姿でした。その時ハッと目が覚めると、辺りは相変わらず真っ暗でしたが、もうそれまでの恐怖心はすっかり消えて、心は穏やかに落ち着いていました。不思議な夢に興奮してしばらく眠れなかったものの、間もなく安心して一気に眠りに落ち、気が付いたら朝だったということです。
 その後も何回かその夢の話を母はしてくれましたが、その都度、熱っぽく語る高揚した表情は特別で、とても生き生きしていたのを覚えています。
 年始のこの時期、世間では吉夢を順に並べて、一富士・二鷹・三茄子などといって、初夢を見るとよいとされていますが、私はそのことには一向に関心はありません。ただ、すばらしい夢を見た母をうらやましく思います。そして母の見た夢の中の阿弥陀仏の姿を、私も夢で見てみたいと、特にこのごろ思うようになりました。

My impressions:
Mother had a dream in which Amida Buddha appeared. I think she had an extremely
superb experience, and at the same time I cannot help but envy her so much. In
Buddhism it is said that Buddhas or bodhisattvas can often appear in one's dreams as
transformed bodies and teach and lead people in them.
I'd also like to have a dream of Amida Buddha as Mother did. My hope for seeing the
Buddha in my dream has recently swollen in my heart.