Changing Evil into Good(悪を転じて徳と成す)
「悪を転じて徳と成す」とは具体的にはどういうことでしょうか。
究極的には、仏陀になり、一切の衆生を救済する身にしていただくわけですが、この穢土に生きている限りは煩悩具足の凡夫であり続けます。しかし、本願を信じ、念仏するようになった者の心には大きな転換が起こります。それは煩悩のかたまりのような自分を心の主とし、煩悩に仕えるような生き方をしていることの過ちを知らされ、如来の顕れである念仏こそ真実の主であり、そのみ言葉こそ「まこと」であると受け容れる心の耳が開かれた人だからです。これからは「念仏を心の主とし、煩悩をこころの客人」とみなして、如来のみ教えに導かれながら、浄土への旅を続けようと志すようになります。こうして心の深いところで「価値観の転換」が起こるわけです。
死ぬまで煩悩具足の凡夫ですが、煩悩を起こすのを当たり前と考えていたときと、それを浅ましいことと思うようになったときとでは、少しずつですが生き方が変わってきます。すなわち信心の行者には自身を深く恥じる慚愧と、如来の大悲への深い謝念が自ずから起こってきます。こうして真実を慕う心と、悪に対する鋭敏な感性(拒絶反応)が恵まれることによって、まことの意味での倫理性が育っていくのです。そのことはすでに両聖人も指摘されています。
【 「親鸞聖人の教え・問答集」 梯實圓 】
煩悩具足の凡夫なのだから、とそのことに甘え、煩悩を起こすことを当たり前と思う気持ちは、阿弥陀如来のご恩を感じるとき、不思議と消されてしまいます。如来の光に照育されている証拠でしょう。「悪を転じて徳と成す」という如来のお働きだと教えていただきます。徐々に生き方が変えられているのですね。
My impressions:
I sometimes take it for granted that I may flare up in blind passions since I am a
sentient being filled with worldly passions. But such thinking is miraculously
extinguished on my feeling Amida Buddha’s great compassion. That’s because
I am being brought up by the Buddha’s light. The way I live is little by little being
changed by the Tathagata, I think.