お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Ego(「我」というもの)

 (ところで、)この我というものは、自分の力で潰そうと思ったところで決して潰せるものではありません。如来さまの力によってはじめて潰れるのです。私たちが他力の信心を得るということは、如来さまの力で我が潰されるということです。我というものが如来さまの心に溶かされたのが信心です。溶かされるといっても完全に溶けてしまったら如来さまですから、たとえで言ったら、信心以前には強固だった我の線がいわば点線みたいになると言ったらよいでしょうか。切手や書類でもハサミが要らない点線になっているところがあるでしょう。ああいう状態が信心の状態だとも言えます。我が全部なくなったら仏さまですから、人間であっても信心の人と信心のない人とではやっぱり違うのです。信心の人と信心のない人とは、煩悩具足という意味では変わりはありませんが、信心の人は煩悩に対する執着という我が仏力によって取り去られているのです。     
 【『信心がなければ地獄に行くのか「歎異抄」第十七条・第十八条』 大峯顯】
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 「信心」とは、私たちの「我というものが如来さまの心に溶かされた」状態であると大峯師は言われます。これをより分かりやすく、たとえで言えば、(信前の我を実線とするなら信後の)「我の線がいわば点線みたいになる」と説明されています。私たちの信後の信心がどういう状態であるのかが、とても分かりやすくなりました。             

 また、「信心の人は煩悩に対する執着という我が仏力によって取り去られているのです」( A person of shinjin has already had the ego of adherence against blind
passions taken away by the Buddha’s power. )


の言葉には、阿弥陀さまに見守られながら生きて行ける‘生きやすさ’といったものや、阿弥陀さまの力の頼もしさといったものを感じます。