信心決定と無関係なこと(What Is Unconcerned in the Realization of Shinjin)
病気が治りたいというのは私たちの煩悩ですから、如来さまはお前の病気を治してあげようとは言われません。私の病気を治してくださったり、お金持ちにしてくれたり、あるいは頭をもっとよくしてくれたり、入学試験を通してくれるとか、そんな煩悩の片棒はかつがれません。そういう煩悩の片棒を担ぐのは、神さまでも仏さまでもなく、同じ煩悩を持っている人間でしょう。たとえば、入学試験にご利益がありますと言っている神社があるとしたら、それは神さまがおっしゃっているのではなくて、たぶんそこの神主さんが言っているのでしょう。
【 『浄土の哲学 高僧和讃を読む 上』 大峯顯 】
「正信偈」には、「よく一念喜愛(いちねんきあい)の心を発(はっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり。( When the one thought-moment of joy arises,
Nirvana is attained without severing blind passions.)」と書かれていますように、「一念の信心を得たなら、煩悩を断たずに救われる」のです。
従って、煩悩具足の身のまま救われるのですから、信心決定と煩悩とは関係がないことになります。ですから、上記にありますように、仏さまは私たちの煩悩の片棒はかつがれないのです。
でも、私たちは煩悩で悩むことがあっても、信心を頂いた上は、如来に守られているという深い安心を得られますから、前向きに人生を送ることができるといってもいいでしょう。