お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Object(お目当て)

  親鸞聖人は青年時代からご自身を厳しく問われました。そして、阿弥陀如来の光に照らし出された自己を「凡夫」であると自覚する立場をとられました。

 わが身は無明(まよい)、煩悩(欲)が「みちみち」て成り立っており、怒り、腹立ち、嫉(そね)み、妬(ねた)みなどのこころが生涯終わるまで離れられない存在と認識されました。「みちみち」は漢字では「満ち満ち」です。

              (略)

……… わが身には仏になる要因は何一つ持ち合わせていない、どうにもこうにもならないものを「凡夫」というのです。『正信偈』には「凡夫」または「凡」のことばが四カ所に記されて、この後には必ず阿弥陀如来のお救いの言葉が添えられています。凡夫だから見捨てられるのではなく、見捨てることのできないのが阿弥陀如来の大きなお慈悲の心なのです。親鸞聖人は『歎異抄』で「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『註釈版聖典 八五三頁』)と、しみじみよろこばれています。

【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 本願寺出版社 】

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  親鸞聖人は凡夫というものを、「無明、煩悩から生涯離れられないものと認識されました」。その凡夫というのは私なのです。

 この「仏になる要因を何一つ持ち合わせていない私を見捨てることができないのが阿弥陀如来の大きなお慈悲の心である」と教えられます。

救わずにおれないという如来のお目当ては、まさに私だったのです。

 ( I do be the object of Amida Buddha’ s salvation. )