お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

In Where Nembutsu Is(念仏のあるところに)

 わがあとは称名ある処(ところ)すなわちわがあとなり(法然聖人)    
( Where there is a nembutsu; where I am. )
      『空善聞書』五十六条(『浄土真宗聖典全書五』六六一頁)   
(略)
 「法然上人の仰(おおせ)に、わが菩提所(ぼだいしょ)をつくるまじき、わがあとは称名ある処すなわちわがあとなりと仰(おおせ)ありけり。またあとをとぶらふといひて、いはい、そとばをたつるは輪廻するもののすること也と」 
 『空善聞書』という書物は、蓮如上人がおっしゃっていたお言葉を、空善というお弟子が書き留め、それをまとめた語録で、このお言葉は、蓮如上人の語録の中で、法然上人のお言葉として(「法然上人の仰(おおせ)に」)述べられているものです。
(略)
 文中後半の「いはい」は位牌のことで、「そとば」は卒塔婆(そとば)、つまりお墓のことです。法然聖人は、ご自身の滅後について、位牌や過去帳の中にいるのではなく、また、お墓の中にいるのでもないと示しておられます。法然聖人だけでなく、真実信心の念仏者は、みな等しく浄土に往生し、み仏となられていますから、位牌やお墓の中にいるという考えは、「輪廻するもののすること」、つまり、迷っている者のすることだと断じておられるのです。庄松さんが「わしゃ、墓の下にはおらんぞ」と述べたという逸話は有名です。      
 (略)
 法然聖人も親鸞聖人も、そして縁あった先立たれた方々も、みな、お念仏の中にいてくださるのです。                         
【 『珠玉のことばたち』 満井秀城 本願寺出版社 】         
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽   


 法然上人が、「真実信心の人は、死後等しく浄土に往生しておられるのだから、位牌や、過去帳の中や、お墓の中にいるのではない」と教えておられることを初めて知りました。また親鸞聖人は「親鸞閉眼せば加茂川に入れて魚に与うべし」と言われましたし、庄松さんは、「わしゃ、墓の下にはおらんぞ」という言葉を残しています。このように、真実信心の人の滅後の正しい所在地は、お墓の中なんかではない、ということが明らかです。      
 法然上人の、「私は称名ある処」、すなわち「念仏の中にいつもいます」というお言葉に、念仏のすばらしさが知らされます。そして、南無阿弥陀仏と称え、故人や遠方にいる人を偲ぶとき、寂しさは消え、勇気と喜びが喚起されるのです。