Talks to Be Heard(聞くべき話)
たとえば、「私はどこから生まれてきたの?」「何のために生きているの?」「死んだらどうなるの?」という、おそらく誰もが一度は考えるであろう問いに応えるような情報は、日常生活のなかには皆無とさえ言えるのではないでしょうか。おそらく有史以来、問われ続けてきた問題であるはずなのに。 私も仏法と出遇うことが無ければ、問いはあっても、応えることも、考え続けることもなかったでしょう。ましてや、その答えを見つけることなどあり得なかったと思います。
私は、いま、はっきりと、仏法を聞くために生まれさせてもらい、念仏させていただくために生かさせていただいている、と言えます。そういう答えしか出すことができません。
(略)
….. 阿弥陀さまのこころを聞かせてもらうのが仏法聴聞です。仏さまの話を聞いて、それを自分の都合の良いように取捨選択したり、整理したり、修正や統合、組み立て活かしていくというのではありません。仏法はうまく生きるための情報ではないのですから。身につける情報でもありません。そのまま聞けば、響いてくるのが仏法です。また、阿弥陀さまのこころを聞くことができない、また受け取ることができないと思ってみても、必ず届くように仕上げられているのです。
【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀 探究社 】
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
ここで、西光師が前半部分で言われていることは、私も同様に思うことです。
(What Mr. Saikou says in the first half of the sentences is the same as my thought.)
また、西光師は「阿弥陀さまのこころを聞かせてもらうのが仏法聴聞です」と言われます。「阿弥陀さまのこころ」とは、阿弥陀さまは慈悲の仏さまですから、「慈悲のこころ」と受け取れるのではないでしょうか。そうしますと、(聴聞しても)「阿弥陀さまのこころを….. 受け取ることができないと思ってみても、必ず届くように仕上げられているのです」、の件からは阿弥陀さまの深遠な慈悲(のこころ)のお働きが感じられます。私たち凡夫を必ず助けると、阿弥陀さまは計らわれているのです。力強いことですね。