Hearing(「聞く」こと)
A子さんは三十代で夫が病気で亡くなりました。残された一男一女を育てるために、懸命に働きました。子育てが一段落した頃、ご住職から誘いがあってお寺参りが始まりました。しかし、それまで仏縁がなかったA子さんは、折々のご法座に参詣し、また研修会にも出席し、聴聞(聞法)をしても、お話しの内容がほとんど理解できませんでした。
お寺参りを止めようとしましたが、ご住職が熱心に声かけをされたので、お聴聞を続けました。すると、あれほど難しかったご法話が、聴聞を重ねていくうちに少しずつ耳に入ってくるようになりました。そして、ご自身が気づく前から阿弥陀如来は、苦しみ悩んでいるわたくしのために、大きなお慈悲の心でもっと聞いておくれ、目覚めておくれとはたらきづめであったと、素直にうなずくことができるようになったのです。
「いまでは嬉しくて、有り難くて、もったいない思いでお念仏を申す日暮らしです」と熱い思いで語っておられたお顔が忘れられません。
【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 】
浄土真宗では、仏法は「聞く」こと、つまり、「聴聞(ちょうもん)」に極まると教えられます。誰でも初めは難しく感じるでしょうが、聴聞を積み重ねていくうちに必ず耳に入ってくるものです。藤井師はこの書で、蓮如上人の「信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって信心を得ることができるのである(『御一代記聞書』より)」という言葉を紹介しておられます。
「いまでは嬉しくて、有り難くて、もったいない思いで念仏を申す日暮らしです( Now I am very happy and I appreciate the Buddha’s benevolence; I live a life saying the
Nembutsu and thinking it too good for me.)」。このA子さんの言葉に、仏縁の強い方だなぁと、とても嬉しく思います。