お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

世間のものさしと仏法のものさし(The Ruler of the World and the Ruler of Buddhism)

 世間のものさしと仏法のものさしとどちらが大事か、どちらが有用かなどということはできません。また、どちらか一方を選ばなければならないというものでもありませんし、時と場所に応じて、両方のものさしを使い分けるというものでもありません。常に世間のものさしと仏法のものさしをいっしょに使うことが必要でしょう。違ったものさしをいっしょに使うと、当然のことながらどちらを基準にすればよいのか迷います。

 人生の迷いは苦しみのタネですが、世間のものさしと仏法のものさしの違いを認識した上での迷いはとても大切です。常に世間と仏法の違いを感じることでもあります。そこで私の生き方が問われますし、考えなければなりません。考えざるを得なくなってきます

 現代社会は、仏法のものさしを基準にすることを忘れてしまっている時代ともいえるでしょう。世間のものさしが絶対的なものではなく、なんとなく歪みが生じているようです。ここで世間のものさしに、仏法のものさしを当ててみることも必要になってきているように思うのです。

  【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀(さいこうぎしゅう) 探究社 】

 

 私たちは、この世で生きてゆく限り、世間のものさしに従っていくことが求められます。そうでなければ、世間の秩序が成り立たないからです。それと同様に大事な仏法のものさしの存在があります

 筆者は「常に世間のものさしと仏法のものさしを一緒に使うことが必要だ」といっておられます。「そのためには、世間のものさしに仏法のものさしを当ててみることも必要になってくる」とも。

 何と言いましても、仏法のものさしを基準にすることが最善の方法だと思います。世間のものさしは変わることがありますが、仏法のものさしは決して変わることがないからです。