The Solution of Death(死の解決)
私の知人に天台宗の坊さんがおりました。がんに罹って入院されました。個室で、枕元には不動明王をお祀りして、時間があれば不動明王の真言を唱えておられました。がんを本人に宣告することは死刑を宣告するのと同じだと言われていた時代のことです。お医者さんは家族の方に「一ヶ月の命」と言われたそうです。しかし、家族の方たちはそれを告げませんでしたので、本人は治るものだと信じ切っておりました。ですから治りたい一心で懸命に不動明王の真言を唱えておられたのです。ところがふとしたことから自分ががんであることが分かったのです。
すると状況が一変しました。それまで懸命に唱えていた不動明王の真言がパタリと止まったのです。そうしますと見る見るうちに衰弱していきました。そしてお医者さんの診立てよりも早く、一週間経った後に亡くなってしまわれました。
私はその姿を見せてもらって、死に対する解決は自力聖道門であっても簡単にできることではないということを教えていただいた気がします。
それからしますと、他力の真宗の教えはまさしく死を直視する教えだと思います、この意味で、自己の死を解決する道としての仏教として考えた場合は、究極的に真宗の教えに到ると思っております。しかし真宗は死の解決だけを問題としたのではありません。死を解決できたからこそ、今を精一杯生きることができる教えだと受け止めています。(淺田正博 文学部教授)
【 『真実に生きん』 りゅうこくブックス123 龍谷大学宗教部 】
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「(自己の死を解決する道としての仏教、として考えた場合は)真宗は死を直視する教えだと思う。そして死を解決できたからこそ、今を精一杯生きることができる教えであると受け止めている」と浅田師は言われますが、異議をさしはさむ余地は全くありません。
「生死不二」という言葉がありますが、生の裏には常に死の影が付随しており、生と死を切り離すことはできません。私たちが忌み嫌うこの死の解決をしてこそ、心から生を楽しむことができるのは当然と言えるでしょう。
(We have a phrase “Life and death are not inseparable.” Just like this phrase means,
on the back of life, the shadow of death always accompanies with life. That is to say,
each of them is not independent of each other. Naturally, it is because we have solved
the problem of death we detest that we can truly enjoy our lives.)