お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

無常の風に誘われる ( To Be Carried Off by Death ) 

 「昨今は宗教、特に仏教が厳しく問われています。……… 時代遅れだ、死後のことばかりだ、等の声をよく耳にします。しかし浄土真宗はいつの時代でも誰にでも受け入れられる教えです」。これは藤井邦麿師の言葉です。ここで、「死後のことばかりだ」との声に注目してみたいと思います。                               

 なぜ仏教は「死」を重要視するのでしょう。この回答には「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉がピッタリだと思われます。国語辞典にありますように、「生きるということと死ぬということは、紙の表と裏のように切り離せない関係(一如)である」からです。つまり重要視される理由は、「百パーセント確実な未来である死の問題から目を背けることは、生きるということそのものから目を背けていることになる」からです。         

 ところで、蓮如上人は『御文章』の中でこのように仰っています。          

*「朝(あした)には紅顔(血色のつやつやした顔)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば・・・・ 」                  

*「人間はただ夢・幻の間のことなり、後生(死後)こそ永生(永遠)の楽果なり」   

*「人間は五十年、百年のうちの楽(たのしみ)なり、後生こそ一大事なり」      

 仏教では死後は六道という迷いの世界を永遠に輪廻すると教えられています。そうならないために、死の問題の解決を明らかに説く仏教を聞くよう勧められます。また、蓮如上人の言われるように、人間は生きたところでせいぜい百年余りの短い人生です。いつ無常の風に誘われて白骨の身になるかわかりません。ですから、後生こそが永生の楽果になるよう、「死の問題から目を背けないことが大切である ( It is important for us not to turn away our eyes from the problem of death. )」 と繰り返し強調されるわけです。「死」があるから仏教があるのであり、「死」を抜きにして、仏教はないといってもいいでしょう。