お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

意義ある人生 ( A Significant Life )(1)

 限られた人生の中で、本当に人間として生まれた意義を全うして生き、いのちを終えさせていただくということは、たいへん大事なことだと思います。             

 それは、ただ単に、楽しく自分だけが満足していのちを終えるということではなくて、いろいろなつながりの上で、本当に意義ある人生であったと振り返ることができるかどうかということで、人生という面を考えたいと思います。広い意味で、充実した人生を送らせていただくことができるかどうかということを考えたいと思うのです。          

 それを考える時、私は、南無阿弥陀仏を依(よ)りどころにする以外に、本当の道はないと知らされるのです。「正信偈」の中にも、                      

 極重の悪人はただ仏を称すべし__ 極重悪人唯称仏                

という一節が出てきますが、極めて重い悪人は、ただ仏を称すべし、つまり、それ以外に道はないということです。もちろん、表現上、称する、仏のみ名をお称えするという言葉になっていますが、広い意味でのお念仏ということです。それはまた、信心を含めたお念仏ということであります。                                

 これは、たいへん厳しいお言葉であると同時に、お念仏申すことを通して私たちは、何か特別の難しいほかの方法を用いるのではなくて、ただ阿弥陀仏の救いにおまかせするというただ一つの道を通して、本当の人生、み仏の世界に向かっての人生を歩ませていただくことができる、というふうに私は味わいたいのです。                  

   【 『すくいとよろこび』  大谷 光真  本願寺出版社  】        

 

 上記文面から、「世間虚仮(こけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という聖徳太子の言葉を思い出します。「世間(人の世)は、うそ、いつわりの世で真実がなく、ただ仏の世界のみが真実である」ということですから、このことからも、本当に「意義ある人生」は、世間では見いだすことができないと言えるでしょう。                   

 「正信偈」に,「極重の悪人はただ仏を称すべし」とありますように、「阿弥陀仏を依りどころにする以外に、本当に意義ある人生はないということです」と仰っています。    

 「つまり、阿弥陀如来に救われてすべてをお任せして、浄土へ歩む人生こそ“意義ある人生”だと言えるでしょう。( That is to say, it is ‘a truly significant life’ for you to be saved by, leave everything to the Buddha and go to the Pure Land. )」