念仏を申す身になる( You Become a Person Who Says the Nembutsu )
弘誓のちからをかぶらずは
いずれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもひつつ
つねに弥陀を念ずべし
という一首を作っていらっしゃいます。意訳すると「阿弥陀如来の広大な本願の力を蒙(こうむ)ることがないならば、いったい、いつの時になって娑婆をでることができるでしょうか。仏恩を深く思いつつ、常に阿弥陀如来を念じなければなりません」となります。
私たちは、真実を求めて日常生活を重ねていっても、それは、やはり人間のことですから、なかなか真実に至ることはできません。このことは、とかく誤解されて、いくら努力に努力を重ねても駄目だから、もうやめておこうというような安易な考えに流れることがしばしばあるのですが、むしろ懸命に物事に取り組み、真実を求めて努力された方にこそ、この意味が理解できると思うのです。懸命に努力しても、人間の力には限界があり、私が今ここに生きていることの意味も、自分の力では正しく明らかにすることができないと知ることができるのです。
どうしてここに、今、私は生きているのでしょうか。
(略) 「どうして今、私がここに生きているのだろうか」ということを解明することは、おそらくできないのではないでしょうか。懸命に努力して、いかにこの人生を全うしていくべきなのかということは、人間同士の関係の中だけでは説明のつかないことではないかと思うのです。
このように、いろいろなことを考えてみた時に、人間の力だけでは生きていくことのできない私であることが知らされ、同時にまた、阿弥陀如来のお慈悲によらなければ、この人生を全うすることができない私であるということを知らせていただくのです。
その上で、ただお念仏を申す身になって、阿弥陀如来に救っていただくという浄土真宗を理解し、そういう身になっていきたいと思うのです。
【 『すくいとよろこび』 大谷 光真 本願寺出版社 】
『高僧和讃』で歌われている「いずれのときに娑婆をいでん」は「いつ安心して死んでいくことができるでしょうか」という意味になるでしょう。
ここで大谷師は「どうして今、わたしがここに生きているのか」や「生きている意味」、「いかに人生を全うしていくべきなのか」等は人間の力では分からないのではないか、と仰っています。つまり、これらのことがらは、阿弥陀如来に救っていただいて初めて分かることだということでしょう。換言しますと、「ただお念仏を申す身になって」(阿弥陀如来に救われて)分かることなのです。
また、この著書の中で師は「浄土真宗の要は、お念仏を申す身になることです」(P.22)とも言っておられます。「浄土真宗の要は阿弥陀如来に救われることだといえるでしょう。( The pivot of Shin Buddhism can be said that we are saved by Amida Buddha.)」