お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The World of Shouma(庄松の世界)

 旅に病んだ庄松は籠に乗せられて、家に帰ってきた。「これで内へ這入ったから安心するがよい、弥陀のお慈悲を喜べ」といったら、庄松答えて曰く、「どこにいても、寝ているところが極楽の次の間だ」と。またある同行が見舞いに来て、「お前が死んだら墓を立ててやる」といった。庄松答える、「わしは石の下におらぬぞ」と。              
 庄松はたしかにわれら一般が生活している知性的分別の世界には住んでいなかったのである。それかといってこの世界以外にも出ていなかったのである。 (略)  庄松の世界では、浄土が娑婆に映り娑婆が浄土に映る世界だといってよかろうと思います。浄土の外にない娑婆、娑婆の外にない浄土、___ これを非一非異の法界といっておきます、彼は実にこの領域をわがものとしていたのです。彼はもとより今申し上げるように知性的分別をもととして、この領域を認覚していたものでもありません。彼はいわゆる饑えて食い渇して飲むという自然的・動物的で、またかねて神性的な生活の中にいたものです。無畏の生活であるから、波が高ければそれと共に高く挙がり、また低くなればそれと共に沈んで行くというだけのことです。「あなた任せの年の暮れ」と申しますが、彼は実にその通りに生きていたものです。人に「後生の一大事は」と問われて、「それはわしの知ったことではない、阿弥陀さまにまかしておけばよい」と答えた。彼はいつも阿弥陀の懐(ふところ)に抱かれていたのである。                                 
       【 『仏教の大意』 鈴木大拙 角川ソフィア文庫 】          
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 浄土真宗妙好人として誰もが知る庄松(同行)ですが、鈴木氏はまた、「彼の目から見ると、いわゆるこの世なるものは、一般の人間が住んでいるような感性的具体の世界ではなかったのである。われらの具体性は、彼にとっては必ずしもそうではなかったのです」とも評しておられます。                                


 同じ弥陀のお慈悲を喜ばせていただきながらも、世間の荒波に翻弄されがちな私のような者からしますと、そのようなことには無縁に思われる彼の世界は、とても魅力的に映ります。( I deeply appreciate the same and equal compassion Amida Buddha
gives us. However, the like of me who is apt to be trifled with the hardships of life feels his world so attractive which seems to have no relationship with such a thing. )