お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

What Foolish Beings Really Are(凡夫の正体)

 信心は長い一生のことですから、緊張はいつも続かないんです。信心相続には波乱がともないます。有り難いと思ったことはいっぺんもないというのは困ります。凡夫の心もやっぱり有り難いと涙がこぼれることがあります。そうかと思ったら、その心がどっかへ行ってしまって、有り難くも何ともないという風にもなる。そういうものが凡夫の正体なんです。そういう正体を如来様は、もう先刻お見通しなんですから、お前の心を立派にしてから助けようなんておっしゃらなかったのです。そのままで助けるといわれるのです。(大峯 顕)(7)

Since we are connected with ‘shinjin’ as long as we are alive, our tension won't be
always lasting. To keep ‘shinjin’ enduring is accompanied by disturbances. It does not appeal to us never having been grateful to Amida. When a foolish being's mind is filled with thankfulness to the Buddha, he also sometimes drops tears. But on the contrary,
it may happen that the mind having gone somewhere, he feels no gratitude at all.
Such poor state is foolish beings’ true nature. The Tathagata has already known
our true nature like this. And so he has never said, “ I will save you after making your
minds good.” He does say that he will save us just as we are.


 この文の直前には、「真実信心の人といっても、有り難い日もあれば、有り難くない日もあります。浅原才市の詩は、『才市よい、うれしいか、ありがたいか』と自分に訊ねて、『ありがたいときや、ありがたい、何ともないときや、何ともない』と答えています。」という文が書かれています。
 たとえ才市のような篤い信心の人であっても、信前、信後を通じて凡夫に変わりありません。凡夫の正体を見抜いた上で、その凡夫をそのままで助ける、と阿弥陀さまは言われていますから、凡夫の側に課せられた救いの条件はありません。
 ところが、仏法を聞いていくと、だんだん悪しかできない地獄行きの自分の姿が知らされ、ついに悲泣悶絶、地獄の底に堕ち切ったときに助かる。それが阿弥陀仏が私をゴールまで導かれる救済の方法なんだと教えられ、以前、私はそれを真に受けていました。これは、阿弥陀仏がすでに見抜かれている私の姿を、もう一度私に確かめさせて、それが本当だと分かったら助ける、即ち「凡夫の正体」が分かったら助ける、と言われているのと同じようなものです。
 今思えば何と情けない、的外れなことを信じていたことか、と悔やまれますが、それだけに間違いに気付いて良かったなあ、と思う気持ちはひとしおです。  

     
 ところで、これに因んで、地獄に堕ちる体験は、阿弥陀仏のお導きによってさせられるもの、と固く信じて疑わなかったことが、完全な間違いであったことを、某会退会後に稲城選恵氏の論文を読んで知りました。地獄行き(と教えられていた)自己発見とは、阿弥陀仏の働きなどと全く無関係で、人間の理性の範疇で知り得ることである、と知った時は驚きました。とても衝撃的だったので、その抜粋部分を下に載せておきます。     


「現代の教学問題」派外からの異説について(宗義研究会)           
     二種深信について(稲城選恵)より抜粋                 
 「罪悪の自覚は内に向かった時、はじめて問題となる。良心がめざめるからである。倫理学者のいう道徳的良心の覚醒は、逆に背を向ける罪障の自覚となる。良心の活動を無限に高めると罪障の自覚も正比例して無限に深化し、無限の暗黒の世界に堕ち入る。その極限を一念覚知者等は善導大師の二河譬の「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死」という三定死といわれ、キュルケゴールは絶望といっている。                    
 真剣に求める者のみにこの自己に遭遇する。一歩上昇せんとすればより深く無底の深淵に堕ちこんでいく。この絶対に救われ難い存在にかけられたのが弥陀の本願であり、名号法であると聞かされた時、誰しも歓喜の感激に酔いしびれないものがいるであろうか。罪悪感はこのように道徳的良心の覚醒によって展開するのである。よく知識人の言葉に、人間の限界の発見によって宗教の世界はひらかれるといわれるのも、このような立場において理解されるであろう。しかし、この場合いかに深刻に自らの障害を悩んでも人間性を場としているのである。」