お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Shinjin of Amida’s Directing Merit(他力回向の信心)

 浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑い無く受け容れた心」のことを言います。                       
 例えば、赤ちゃんは、お母さんを信じて抱かれているのでしょうか。信じるとかいうことを越えて、まかせきっているのです。「お母さんですよ」という声を通して、「お母さんは、ここにいますよ。大丈夫だから安心してまかせなさいよ」という、母親の心を受け容れた姿なのです。同じように、南無阿弥陀仏という言葉(喚び声)を通して、「我をたのめ、必ず救う」という阿弥陀仏の心(本願)を受け容れた心が「信心」なのです。        
 このように、浄土真宗の「信心」は、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受け容れた心、つまり、阿弥陀仏からいただいた心であるということで、「他力回向の信(阿弥陀仏からいただいた信)」と言われています。「他力」とは、阿弥陀仏の本願力、「回向(えこう)」とは私の方へ回(めぐ)らし振り向けるということで、「他力」も「回向」も阿弥陀仏のはたらきを表しています。                       
 阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受け容れるということは、私に限りないひかりといのち(智慧と慈悲)が与えられるということであり、それは自らの愚かさに気づかされると同時に、そのはたらきに包まれ、真実に導かれていく(お育てに遇う)ということなのです。 
【『高校生からの  [仏教入門]  釈尊から親鸞聖人へ』小池秀章 本願寺出版社】    
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 他力回向の信心とはどういうものか、ということについて、私と阿弥陀仏の関係を赤ちゃんとお母さんとの関係に例えて説明されていて、実にわかりやすいと思います。     

 浄土真宗の「信心」は、「私が信じる心ではなく、『私をたのめ、必ず救う』という阿弥陀仏の心(本願)を疑いなく受け容れた心」、つまり、「阿弥陀仏からいただいた心(信心)」であるといわれます。この疑いなく受け入れたことを信心決定と言いますが、仏教を聞く上での要(かなめ)です。                              


 蓮如上人は『御文章』に「信心をよくよくとらるべし」「他力の信心ということを一つ心得べし」「いよいよ信心決定して」「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」等々、信心決定することの大切さを至る所で述べておられます。 


 特に御文章五帖第十六通(白骨の章)には、次のように書かれ、人生のはかなさが実感させられます。「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。 


 人の世は無常です。誰の人も、はやく阿弥陀仏の心(本願=仏願)を疑いなく受け容れて、他力回向の信心を獲ることが求められています。                   
( Nothing is certain in this world. Everybody is asked to soon accept Amida’s
mind or Amida’s Primal Vow without a doubt and rearise the shinjin of Amida’s
directing merit. )