The Experience of Religion in S Society(S会における)信仰体験
「法戦」というS会発行の本があります。S会が結成されてから15年後の昭和48年(1973年)に、親鸞聖人御生誕八百年記念として発刊されたものです。最近、この本を新たに読み返してみました。その中で特に印象的だったのは、当時私がS会で聞いていた信仰体験が書かれていた箇所です。S会で言う信心決定という最も重要な部分です。ここに記録しておくことにしました。
自己の信仰体験
さて次に貴方々にはどんな信仰体験があるのか判りませんが、しきりに編集長の信仰体験を追及しておられますが、仏法求めるきっかけは違っても、真実久遠の弥陀に救われた魂の道程は同じですから、私の体験を述べさせて頂きましょう。
阿弥陀さまから賜った信心なれば、みんな一味の信心であります。他力金剛の信心は人から認可されるものでもなければ、金で売買出来るものでもありません。親鸞聖人が「たとえ、大千世界が火の海原になってもそこをかきわけてでも仏の教えを聞け」といわれ、蓮如上人が「火の中をわけても法は聞くべきに雨風雪はものの数かわ」と仰っておられる様に、自力一杯命懸けで求めたものでなければ、自力無効と切り堕とされて久遠の親と対面するという体験は出来ません。
それは土蔵秘事の人々の言うような善知識の言葉ではありません。不思議というよりいいようがない明らかな仏の呼び声でした。尚こびりついて離れない自力の執心に悲泣悶絶、誰あって声のかけ手のない苦しいドン底に突き落とされた時に、私は久遠の御親の声をハッキリ聞かせて頂いたのです。「なげ倒された覚えがありますか」と横山さんは仰っていられますが、三定死(さんじょうし)の境地はそんな生やさしい、苦しみではありませんでした。
親鸞聖人ならば、「地獄は一定(いちじょう)住みかぞかし」といわれた境地、善導大師ならば「自身は現に是(これ)、罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より己来(このかた)常に没し、常に流転して出離(しゅつり)の縁あること無し」と悲泣された時、始めて衆生苦悩我苦悩(しゅじょうくのうがくのう)、衆生安楽我安楽と共に泣き、共に喜んで下さる阿弥陀如来の大慈悲が知らされたのです。地獄一定が極楽一定と転じた時の私の喜びは心も言葉もたえはてて泣くばかりでございました。十方微塵世界の功徳をまる貰(もら)いさせられ、不可称不可説不可思議の功徳を全領さされた時の喜びは、至心信楽己を忘れ、真に手の舞足の踏むところを知らなかったのであります。この大慶喜と同時に身をひきさかれる様な懺悔をせずにおれませんでした。
これを聖人は、「弥陀五劫の思惟の願をよくよく案ずれば偏に親鸞一人が為なり」又「ああ…..弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく真実の浄信は億劫にも獲がたし。偶(たまたま)、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」とおどり上がって喜んで居られますが、貴方々にこの様な体験の喜びがおありなのですか、秘密でなかったら詳しく聞かせて下さい。そして共に不思議な御縁を慶ばせて頂きましょう。
絶対助かる縁のない私が、絶対助かったのですもの不思議というより外はありません。弥陀の本願まことであった、若不生者(にゃくふしょうじゃ)の誓まことであったとおどり上って喜ばずにはおれませんでした。貴方々は命懸けで求められた事がおありなのですか。求めないものにはこの様な喜びは絶対に味わえません。つもりの信心は臨終の嵐の前には吹きとんでしまいますよ。如来大悲の恩徳は身を粉にしても足りません。師主知識の恩徳は骨を砕いても謝すべしと、ますます迷うている人達を破邪顕正せずにはおれません。どうか一刻も早く真実の信心を獲得して下さることを念ずるばかりです。(『法戦 親鸞聖人御生誕八百年記念』親鸞会より)
以上、S会でいう信心決定の仕方です。私が当時聞いていた通りです。
それにしましても、前回書きました浄土真宗でいわれている信心決定の仕方と、S会における信心決定の仕方には、雲泥の差があります。果たしてどこで正誤の判断をすべきなのでしょう。回答は親鸞聖人が「 『聞』といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを『聞』といふなり( The word hear means that sentient beings, having heard how the Buddha’s Vow arose_____ its origin and fulfillment____ are altogether free of doubt. This is to hear. ) 」と明解に教えておられます。信心決定とは、この言葉通り仏願を疑いなく受け入れる(聞く)ことだと知らされます。
※参照 http://d.hatena.ne.jp/miko415/20120914 (凡夫の正体)