信心は頂き物 ( Shinjin Is a Present. )(1)
親鸞聖人は「身を粉にし」「骨を砕きても」報じ謝すべき阿弥陀如来のご本願を、生涯かけて聞き抜かれました。そして死に際のありさまが問題になったり、死後の行き先が心配になっている当時の人々を、不安から解放されたのです。これまでの日本仏教の教えの体系を、百八十度転換されたのです。それは人間の側から仏さまに対してお祈りし、お願いして救いを求める前に、阿弥陀如来の側から先に呼びかけ、手を差しのべられているお慈悲(ご本願)を明らかにされました。そのお慈悲の心を疑うことなく素直に受け容れたことが信心です。 【『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 本願寺出版社 】
ここに書かれていますように、浄土真宗の信心は私たちの側から「どうかお助け下さい」とお願いして頂くものではありません。阿弥陀如来の側から信心を与えて下さるのです。つまり、信心は阿弥陀如来からの頂き物です。私たちが、「助けて下さい」と言う前に、「助ける」という阿弥陀如来のお言葉があるからです。他の多くの宗教と(すべてかどうかは分かりませんが)異なる真宗の特徴であるとも言えるでしょう。
「そのお慈悲の心を疑うことなく素直に受け容れたことが“信心”です( It is shinjin
that we have got the Buddha’s compassionate mind obediently without doubt.)」。ただ信心を頂くには、阿弥陀如来の本願に対して疑いがないことが肝要です。