お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

To Say the Nembutsu(称名念仏)

 南無阿弥陀仏という称名念仏も決して私の方から始まるのではなく、如来様の方が私を称えさせて下さるのです。つまり如来様の名乗りの反響です。南無阿弥陀仏と向こうから言われる。その声が私に当たって反射するこだまです。
 南無阿弥陀仏が私に当たったと言ったのは、妙好人の浅原才市です。「名号私に当たって南無阿弥陀仏」向こうから先に来ている声が私にぶつかって、それが私の口から「なんまんだぶ」と出る。これが何とも不思議なことだと詩に書いています。どうして私に当たったのか分からないという、名号との遭遇の不思議に対する驚きの感覚です。この私のような者に阿弥陀様が当たるというのはどうしてだろう? 阿弥陀様の方へなんか向かおうとも思ってないはずの私に阿弥陀様は当たって下さった。何とも不思議なことだとびっくりしているのです。
 私の称名は「声の声」でもあると表現しています。如来が私を呼んで下さる声が私に当たって反射した。これが私が称えるお念仏だという意味です。(大峯 顯)(9)
It was Asahara Saichi , a wondrously excellent believer, who said Namu-amida-butsu
hit him. “ The Name hit me and I say Namu-amida-butsu.” : The voice having
beforehand reached from the other party struck him and is uttered as

“ Namu-amida-butsu ” from his lips. His poem says it is indescribably mysterious. It is
his sense of astonishment at the mystery encountering the Name that he does not
know the reason the Name hit him. “ Why does Amida Buddha hit the like of me ?
Amida Buddha struck me though I cannot intend at all to look toward the Buddha,” he
is surprised that it is very mysterious.
He also expresses that his saying the Name is ‘ the voice of [ echoed on ] the voice.’
The Tathagata's voice which called me echoed on me : This is the meaning of the
nembutsu I say. (第二段落以下の訳)


 自分で称えていると思っている念仏は実はそうではなく、阿弥陀如来によって称えさせられているということ。何故そうなのかということについて、他のページに書かれています。一つには、如来は私達が生れてくるずっと前に本願を成就して、既に阿弥陀如来になっておられるということが、すべての事柄の先であるということです。つまり、世間でも後手先手と言われるように、凡夫はいつも後手であり、如来はいつも先手であるからです。二つには、親鸞聖人が「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と言われているように、称名念仏というものはもともとそのものの力のあらわれであり、阿弥陀如来自身の行を行ずることであって、そこには私達凡夫の自力を差し込む余地は皆無だからです。
 そうすれば、私が自分で称えていると思う念仏は、先手の阿弥陀仏がまず御自身の行として南無阿弥陀仏と称えられて、それが私に当たったもの(私が称えさせられたもの)であること、即ち才市が「名号私に当たって南無阿弥陀仏」と言った言葉が、すーっと胸に届いてきます。念仏が胸にあふれ口からこぼれるとき、阿弥陀如来は常にじきじきに私を呼び続けておられることを実感するのです。