お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

「タスケル」と「タスケタマヘ」

 南無阿弥陀仏のはかりしれない不思議の功徳は、私の今ここに、十劫の昔からすでに届けて下さってあるんです。「ナンマンダブツ」と念仏することは、私の口から如来さまの方へ発信しているようですけれども、本当は如来様が私を呼んで下さっている声ですね。それを親鸞聖人は「帰命とは本願召喚の勅命なり」と言われたのです。本願召喚とは如来様の方が私を呼んでいるということです。こちらが如来さまを呼ぶより先に、如来さまが私を呼んで下さっているということです。
 蓮如上人はこの帰命ということを、「タスケタマヘ」という上人自身の表現でおっしゃっています。この場合でも、わたしのほうが先に如来さまのほうへ向かってタスケタマヘということではありません。「帰命」は、こちらから向こうへの発信のように見えますが、実はそうじゃないのです。「帰命せよ」と言われている如来の勅命に対する応答であります。「タスケタマヘ」という以前に「タスケル」という如来さまの呼び声が先にあるのです。だから、蓮如上人のいわれる「タスケタマヘ」とは「タスケル」という如来さまの発信を受けとった姿です。受信なんです。(大峯 顯)(10)
Saint Rennyo interprets in his own expression the words “ to take refuge” into “ Please save me.” It does not mean, in this case either, that I say, “ Please save me,” to the
Buddha previous to him. The phrase “ to take refuge ” seems dispatch from me to
Amida Buddha, but in fact it is not right. It is a response to the command of the
Tathagata who says, “ Take refuge. ” Before my saying “ Please save me ,” exists the
Tathagata's call saying “ I'll save you. ” Therefore, Saint Rennyo's saying “ Please
save me, ” is the state having received dispatch from the Tathagata who says, “ I'll
save you. ” It is receiving ! (第二段落の訳)


 御文章には「たすけたまへ」という言葉がよく出てきます。たとえば、御文章第二帖十四通に次のような文があります。
「この他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき………」
 文中の「たすけたまへ」は普通に読めば、「助けて下さい」と私の方からお願いするように解釈されると思うのですが、それは正しくないと言われるのです。念仏を称える時と同様に、私の一歩前には必ず先手の如来がおられるからです。「タスケル」は、如来が「必ず助ける」と言われるから、その言葉を真受けにしてお任せすることですから、私の方から「どうか助けて下さい」とお願いするのではないということです。このことから、まず「タスケル」という弥陀の発信があり、それを受信した姿が「タスケタマヘ」であることが分かります。
 この二帖十四通の現代語訳として、浅井成海師は次のように表現しています。
「その他力の信心とはどんなものかといえば、自分のはからいを少しもまじえずに、ただひとすじに阿弥陀如来をふたごころなくひたすらお従いして『お誓いに従います』とおもう信心が起こったとき…….」【『蓮如の手紙』(お文・ご文章現代語訳)】
 文中の「たすけたまへ」は「お誓いに従います」と訳されています。ここでも「タスケタマへ」は必ず助ける、の誓願に従うこと、即ち「お誓いに従います」と受信した姿であることが明らかにされています。
 「タスケタマヘ」、それはとりもなおさず「タスケル」という弥陀の誓願が込められた名号を受けとった姿そのものであるわけですね。しかし、その意味は読む人によっては、非常に誤解されやすいので注意しなければならないと思います。