お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Issa Kobayashi as a Wondrously Excellent Person(妙好人としての小林一茶)①

 俳人一茶の名はあまりにも有名ですが、信仰の人としての一茶はあまり知られておりません。
 一茶もまた、南無阿弥陀仏にまかせ切った無二の信者であったのです。一茶は宝暦十三年五月五日、信濃国水内郡柿原の百姓の子に生まれたが、生みの母は三歳の年の八月に死んでしまった。「親のない子はどこでも知れる、爪をくわえて門に立つ」孤児の淋しさにたえられない少年一茶は、我と来て遊べや親のない雀、とうたった。それから、継母が来る、父が死ぬ、妻をめとる、子供を失う等々、人間のありとあらあらゆる不幸と苦しみの体験を通して、一茶はいつしか他力の信心に慰められる人になっていたが、六十の春を迎えたとき、一茶はしみじみとこう書いている。

 「御仏は暁の光に四十九年の非をさとり給うとかや。あら凡夫のおのれごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷いて、はるかに照らす月影さへたのむ程の力なく、たまたま非を改めんとすれば、暗々然とし盲の書を読み、ちんばの踊らんとするに等しく、ますます迷にまよひを重ねぬ。げにげに諺に言う通り愚につける薬もあらざれば、なお行く末も愚にして、愚のかわらぬ世を経べきことを願うのみ。『まん六の春となりけり門の雪』」

 こうして、一茶の法悦と感謝の生活がはじまった。聞法にも打ち込んだ。それでも一茶にふりかかる浮世のうらみは相かわらず、六十一の年には妻に先立たれ、五番目に出来た子供も死んだ。後妻を迎えたが、しばらくで別れた。更に越後から後妻をもらう。凡夫一茶の日ぐらしはどこまでも続きました。こうした人生を通って、深く自分の内面を見つめた一茶は、やがて満足の心に徹することが出来たのです。
 露ちるや 地獄の種を きょうもまく
 人のため しぐれておわす 仏かな
 涼しさや 弥陀成仏の このかたは

 そして文政二年正月、一茶は有名な「おらが春」をまとめました。それは自分の句と文を集めたもので、自叙伝とも精神史とも見えるのですが、「から風の吹けばとぶ屑家は屑屋のあるべきように、門松立てず煤(すす)はかず、雪の山路の曲がり形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける」と記しました。
 【「妙好人めぐり第三集」 平原暉也編集  文化時報社発行】


 尚、次のような、文中最後の段落に関係する歌があります。
  めでたさも 中位(ちゅうくらい)なり おらが春
  ともかくも あなた任せの 年の暮れ

 文中にもありますが、俳人としての一茶はあまりにも有名で、誰もが知っていると言ってもいいのではないでしょうか。そして一茶といえば、やせ蛙まけるな一茶これにあり、 我と来て遊べや親のない雀、雀の子そこのけそこのけお馬が通る、名月を取ってくれろとなく子哉、等がなじみ深い歌として思い浮かびます。
 このように、私も俳人としての一茶しか知らなかったので、一茶が浄土真宗妙好人でもあったと知って驚きました。上の文には波乱万丈とも言える一茶の生涯が簡略に書かれていますが、それを背景に生み出された歌からは、阿弥陀仏に深く帰依した姿が窺えます。尚、上の歌の「あなた任せ」は、「阿弥陀如来任せ」の意味だと言われています。


My impressions:
Many people may know that Issa Kobayashi was a very famous haiku poet, but few of
them know he was also an excellent believer in Shin Buddhism. I did not know about
it, either. Therefore I was surprised to know the fact. You will find that he was a person in shinjin through the haikus composed out of his profound faith in Amida Buddha.



         小林一茶