お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Shinjin and Enlightenment(信心と悟り)

 いろいろな煩悩に苦しめられること以外に私たちの一生はありません。そういう身体を抱えた人間が、特別の修行によって煩悩を断ち、今生で仏のさとりを開くというのが即身成仏という真言密教の教えです。空海は『即身成仏義』という著書でこの観念を説き、自分もこれを実行したと言われています。この煩悩の肉体を持った今生で煩悩を断つというのが即身成仏です。それから「六根清浄」というのは、眼・耳・鼻・舌・意つまり心身の煩悩の汚れを清浄にして仏に成ることを目ざす『法華経』の教えです。これも今生でのさとりです。 
 これらの自力聖道門の教えに対して、浄土真宗の他力の信心とは、今生でなく来世のさとりが仏によって今生で約束されているという立場です。われわれには、即身成仏とか六根清浄とかいう意味での今生のさとりは不可能です。煩悩は死ぬまで断てないのが私たち凡夫の真実だからです。                                
  【 『即身成仏と信心決定「歎異抄」第十五条』 大峯顯 百華苑 】       
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 『歎異抄』第十五条で唯円は次のように言っています。                
 「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくといふこと。この条もってのほかのことに候ふ」(On the assertion that one attains enlightenment even while
maintaining this bodily existence full of blind passions. This statement is
entirely absurd.)
これは、煩悩に満ちた私たち凡夫でもさとりを開くことができるんだと主張する当時の人たちの異義を嘆いた言葉です。                           


 ところで、親鸞聖人は「凡夫」について『一念多念文意』の中で次のように言われました。「『凡夫』というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」。                                     


 このように、煩悩に満ちた凡夫は煩悩を断ち切ることは不可能だから、生きている今生で、さとりを開くことはできないんだと、大峯師は言われます。このことは、浄土真宗では「他力の信心とは、今生でなく来生のさとりが仏によって今生で約束されている」ことだと教えられていることからも明らかです。「信心」を得た(信心決定した)からといって、それは「さとり」を開いたことではありませんし、また、逆に「さとり」を開いたからといって(今生では不可能ですが)、「信心」を得たことではありませんから、同一のもののように捉えてはならないとも言えますね。