お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

An Unexpected Discovery(思わぬ気づき)

 二月に入り、厳しい寒さが続いています。ウオーキングに出かけても、冬の景色は単調で華やかさがありません。でも、私のお気に入りの公園には、すっかり葉っぱを落とした裸木の木立が所々にあり、今年の冬は、これら裸木に思わぬ発見をしたのです。取り立てて目立つ物のない冬だから、かえって素朴な裸木の姿に目を引かれたのかもしれません。    
 さくら通りと名づけられた小道沿いの一角には、桜の裸木の一群があります。どの木の肌も黒みを帯びた渋い褐色で、幹は細めで、枝々は縦長に広がっています。高さ十数メートルにもスラリと伸びた木々の姿は、貴婦人のように上品な趣があります。         
 また、別の場所には、異種の桜の木の一群があります。その場所の木々の幹は太く、灰色の木肌はつやつやとして、なめし革のように滑らかです。そして、それぞれの幹からは、横方向に広がる数本の太い枝が、しなやかな曲線を描いて伸びています。その姿は優雅で艶めかしく、気品さえ感じるのです。                          
 それに、すべての裸木に共通していること。それは、大枝から中枝、そして小枝へと無数に広がる中小の枝々には無数の冬芽がしっかりとついていることです。それらは、春に備えて芽吹くためのエネルギーを、寒風に耐えながらじっと蓄えているのです。そして木々のどの小枝の先々も大空を仰ぎ、きゅっと反って天を衝く様は、凛とした力強さがあります。 
 これまでは、裸木といえば殺風景で、何の変哲もない枯れ木のようにしか映らなかったのですが、全く正反対だったことに気づき、驚いています。まぎれも無く、生命力と魅力に満ちた生木だったのです。                              

 もう何十年も裸木を見てきているのに、実際は何も見ていなかったのでした。この事実は、私の阿弥陀仏に対する気づきに似ているなと思いました。               
   一々のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   光明てらしてほがらかに
   いたらぬところはさらになし

親鸞聖人は謳っておられます。阿弥陀仏の光明は、私の身の周りの山川草木に至るまで、遍満していたのです。それもずっと前から。取りも直さず、「南無阿弥陀仏」は私のすぐそばに、ずっと前から届いていたのでした。大事なことは、そのことに気づくことだったのです。                   
Beams of light, thirty-six hundred
Thousand billion in number,
Shine brilliantly from within each flower,
There is no place they do not reach.(訳:「英訳親鸞聖人著作集」)
Thus, Saint Shinran highly praises light. Amida Tathagata’s light has long since been
omnipresent around me and in nature. That is to say, Namu-Amida-Butsu has long
since reached by the side of me. It is the most important matter that I realized that fact.


※追記
下の句は、最近、朝日新聞の‘朝日俳壇’に載ったものです。
   寒中の全ての枝木美しく (横浜市 込宮正一)
裸木の魅力に気づいている人もいるんだなと嬉しくなりました。