お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

What Right Dharma Teaches(正法が教えること)

 仏陀とは、生と死を越えて、生と死を一望のもとに見通すような智慧を獲得して、生きることもありがたく尊いことであり、死ぬこともまたありがたく尊いことであると言い切れる精神の領域を開いているお方です。
 そのように生と死を越えて、生と死を全体的に見通した上で、このように生きるのが正しい生き方ですよ、このように死を受け容れていくのが正しい死の受け容れ方ですよと、生と死に処する正しい在り方を私たちに教えてくださっているのが仏陀の教法(仏法・仏教)なのです。それを「正法」ともいうのです。人々はその教えに従って、生の意味と死の意味を確認するとき、初めて心豊かに生き、心豊かに死を迎えることができる正しい法則だからです。
   (「親鸞聖人の教え・問答集」 梯實圓)


 「正法」とは人々に正しい生き方と正しい死に方を教える仏陀の教法であると言われています。そして正法の教えに従ってこそ人々は初めて「心豊かに生き」そして「心豊かに死を迎えることができる」のであると。
 およそ人生のテーマとは「心豊かに生きる」ことを追及することではないでしょうか。すべての人々の関心事であることに違いありません。一方、「心豊かに死を迎える」ということは、すっかり度外視されています。忘れられているというより、むしろ考えないようにされていると言ってもいいでしょう。しかし、どうしたら「心豊かに死を迎える」ことができるかを考慮に入れてこそ、真に「心豊かに生きる」ことができるのではないかと思っています。
 私はこの「心豊かに死を迎える」という言葉に、今初めて聞くような新鮮な感じを抱きました。そしてそのためには、正法(仏法)に依らなければ不可能であることを改めて認識した感があります。更に、生きてゆく上で、これほど安堵感を覚える言葉があっただろうかと思うのです。


My impressions:
I cherished a fresh sense toward the expression “ to peacefully receive the death
of ourselves” as if I had heard the words for the first time. On the way to live on,
I think, there seems to have been no other happy phrase that has given me so
great a sense of relief as this.