お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Self-knowledge of Coldness and Warmth(冷暖自知)

 改めて「冷暖自知」という言葉について考えてみました。この言葉は以前手品師さんのブログで紹介されていたもので以下のようです。(引用、承諾済み)


弥陀の心光が私を包んでくださるということは、ご信心を得ないことにはわからないが、得たら説明の必要はない。
「冷暖自知」という言葉がそうです。
今日は寒いか暖かいかというようなことは他人に言われなくとも自分の体でわかります。それと同じで、ご信心もやはり自分でわかるということしかない世界です。
【信心の伝統 高僧和讃を読む 下 大峯顯 本願寺出版社 】


 更に調べてみました。[広辞苑]には次のように書かれています。
冷暖自知(れいだんじち)
『伝灯録(4)』水が冷たいか暖かいかは飲んで初めて分かるように、仏法の悟りは人から教えてもらうものでなく、体験して親しく知ることのできるものである。
『伝灯録』(『景徳伝灯録』の略称)
1004年(景徳1)、宋の道原が著した仏書。30巻。禅宗の伝灯法系を過去七仏からはじめ、インド・中国歴代の諸師の伝記を集録。


 「冷暖自知」という言葉は元来仏教用語で、『伝灯録』に記載されていたのですね。この言葉は大峯師の言われる「信心もやはり自分でわかるということしかない世界である」ということを簡潔に説明するのに、最もふさわしい言葉だと再認識しました。前回書きました“感じる心”によって阿弥陀仏のお慈悲がわかるように、信心も“感じる心”によって自分でわかるというしか他に説明のしようのないものなのですね。


Self-knowledge of coldness and warmth(冷暖自知)
We can for the first time learn whether water is cold or warm after we drink it. Just like
this, spiritual enlightenment of Buddhism can be deeply known not by learning from
others but by our self-knowledge felt through our own experience.