お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Violence( Corporal Punishment; Abusive Language; Grudge ) 暴力(体罰;暴言;恨み)

 本当に他人に傷害を加えない人間とは
 身体によっても
 言葉によっても
 また心の中でも
 他人に傷害を加えない人間である

           ___サンユッタ・ニカーヤ(「相応部経典」)
 ブッダは、相手の心を傷つける言葉を使ってはいけないし、相手を憎んだり、恨んだりする思いを持ってはいけないと、繰り返し説いています。
 相手を暴力で傷つけるなと言うのは当然です。『ダンマパダ』(「法句経」)でも、こう言っています。
 「暴力におびえざるものやある
  死を恐れざるものやある
  己の身にくらべてもみよ
  殺すなかれ
  殺さしむなかれ」
 ブッダは暴力が相手を傷つける上、最終的には自分をも傷つけると忠告しているのです。
       【「ブッダのひと言」 高田明和  中経の文庫】


 釈尊は、暴力を徹底的に否定しています。身体によっても(体罰)、言葉によっても(暴言)、そして心の中でも(恨みの心を懐くことさえ)行ってはいけないと、繰り返し説いています。

 しかし、今年1〜2月ごろ大阪の市立高校で、バスケ部主将が体罰を苦にして自殺しました。また、柔道女子の日本代表監督が、選手への暴力、暴言を問われ、選手たちから告発されました。この事実は、文中の「ブッダは、暴力は相手を傷つける上、最終的には自分をも傷つけると忠告しているのです」の言葉通り、柔道女子の日本代表監督は辞任に追い込まれ、高校バスケ部の体罰を働いた顧問教諭には、懲戒免職という厳しい処分が下されました。釈尊の言葉通り、どちらも彼ら自身を傷つける結果になったのです。まさに「仏語に虚妄なし」の言葉が実証されたと言えるでしょう。そしてこのような不祥事が引き金になって、今や、学校やスポーツ界における体罰が問題視されています。

 ある人は、「体罰は言葉の貧困から生ずる指導者の問題だ」と言っています。つまり、言葉で指導できないから手を上げるのだというのです。全くその通りではないでしょうか。また、「愛の鞭」なる言葉がありますが、ある著名な元スポーツ選手は、「体罰に愛を感じたことなど一度もない」、「体罰を受けた後残るのは怒りだけだ」と言っています。私は「愛の鞭」とは「自分の暴力を正当化する都合のいい言葉でしかない」と思います。

 次は、現在日本在住のある外国人男子学生の意見です。体罰は同様に日本だけに留まらず、世界中で問題になっていますが、彼もまた暴力を否定しています。
I have seen firsthand as well as heard from others how sadly common the practice of
corporal punishment is.
I have witnessed students being shoved repeatedly against the wall by teachers,
doing their utmost to reduce the children to tears.
Japan needs to rethink discipline in the school system. By all means, corporal
punishment should be banned and it should be seriously investigated and prosecuted.
( from the JT Weekly )
(訳)
 私は体罰の習慣が、残念なことに如何に一般的で、ありふれたことかを他人から聞いたり、または直接見たりしてきました。
 私は生徒たちが複数の教師から、何回も繰り返し壁に突き飛ばされ、教師たちは生徒が泣きだしてしまうまで、それは熱心に突き飛ばしているのを見かけたことがあるのです。
 日本は、学校制度における懲罰について再考すべきです。是非とも体罰を禁止し、真剣にそれを調査し、そして告発すべきだと思います。(ジャパンタイムズ ウィークリーより)