お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

An Only Child(ひとり子)

 親鸞聖人は『浄土和讃』の「勢至讃」のなかに勢至菩薩が救われた念仏の徳を    
超日月光この身には
念仏三昧をしへしむ
十方の如来衆生
一子のごとく憐念す  (『注釈版聖典』五七七頁)            
とたたえられています。                         
 超日月光とは阿弥陀仏の異名です。その念仏とは子が母を慕いその名をよぶようなすがたであるが、その根源には衆生を一子(ひとりご)のようにかけがえのない大切な仏子(ぶっし)として憐れみ念じたまう仏の大悲のおもいが動いているといわれるのです。それゆえ「念仏せよ」と如来がおおせられることは「私を親とよべ」ということであり、私が念仏するということは、自身が一子のごとく念じられていることを聞いて、永遠ないのちのみ親を知った慶びの声であり、広大無辺な阿弥陀仏の徳をたたえる讃仏の声でもあります。同時にまた仏子と知らされながら、およそ仏の子らしからぬ浅ましく愚かなわが身を恥じる慚愧の念仏でもありました。
    【 「聖典セミナー『歎異抄』」  梯 實圓 】

    
 私たち一人一人は阿弥陀如来の一子(ひとりご)であるといわれます。だから私の命はかけがえのない尊いものであると同様に、他人の命もかけがえのない尊いものです。   
 み親の阿弥陀如来は常に私に呼びかけられ、私はそれに応えます。その親子の呼応の仲立ちをするものが「南無阿弥陀仏」となって具現化された念仏ですから、私はこの念仏の中に如来の存在そのものを感じるのです。       
My impressions:
Each of us is said to be Amida Buddha's only child. The others’ lives, therefore, are as
irreplaceable and precious as my life. Amida Buddha is always calling to me, and I
respond to him. It is nembutsu that acts as a medium between the Buddha and me. So I can feel in nembutsu the existence of the Tathagata.