お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Life without Any Regrets(悔いなき人生)(2)

  本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし(『註釈版聖典』五八〇頁) 

               

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 如来の本願力に会えばむなしく過ぎるということはない、と聖人はおっしゃっています。お念仏に会った人生は、どんなに辛く短い人生であっても、空しく過ぎることはない。「空過(くうか)」ではなくて、すぐれて過ぎる一生、「勝過(しょうか)」の人生だということです。「勝過」という言葉が『浄土論』に出てきます。この人生をすぐれて通過する、如来の内容によって充実されて送るか、それとも線香花火のように終わるか、私たちはみな勝過と空過の二つの人生の可能性の選択の前に立たされているのです。念仏のない人生は、どれだけにぎやかに華やかに見えても要するに、流れ去る一生だ。全部きれいに流れ去ります。私どもでも若い頃をふり返るといろんなことがあったようですが、結局はみんな流れてしまいました。学生の頃は人生はゆっくり流れているように思いましたが、いつの間にか加速度がついて流れています。                             
 ところが、そんな私たちが不思議なことにお念仏に出会えたのです。お念仏は無限の命、無量寿の浄土というものを私に保障するものであります。私たちは今度、お浄土に生まれて仏に成るのです。                  
  【 「『浄土の哲学』高僧和讃を読む 上」  大峯 顯 】 



 大峯師は「この人生をすぐれて通過する、如来の内容によって充実されて送るか、それとも線香花火のように終わるか、私たちはみな勝過と空過の二つの人生の可能性の前に立たされているのです」と言われます。そして、勝過の人生、即ち無量寿の浄土というものを私に保障する念仏に出会えた人生こそ、悔いなき人生である、と言われるのです。         
 線香花火のように終わる人生では、あまりに空しいですね。大峯師が言われるように、不思議なことに念仏に出会えた人生を、心から喜ばずにおれません。 
My impressions:
“We all stand at the crossroads ; one is the way of the nembutsu and the other is that
of the non-nembutsu. The former is a fulfilled life and the latter is not,” says Mr.
Omine. Life which ends in life like toy fireworks is too empty, isn't it? I can't help but
rejoice that I have met the nembutsu in my life.