お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

はからいを超えた念仏 ( The Nembutsu beyond Working )

 念仏には無義をもって義とす 歎異抄』第十章 (念仏には、教義なきを教義とします)

 “南無阿弥陀仏”と称えるのが、もし自分の意思や努力によって行われるとするならば、それは、一種の自力行為になるでしょうが、親鸞の場合は、念仏すること自体を阿弥陀如来の思いやりの心、と受け取ったために、称名念仏そのものを、自分の浅はかなはからいを超えた行為、と説いたわけです。そもそも、人間の自力などというものには限りがあるわけで、もし、自力によってでなければ念仏を称えられないし、そのような念仏でなければ救われない、ということになりますと、それこそ、百万遍称えてみても、とうてい阿弥陀如来の本願力にふさわしい念仏とならないかもしれません。                   

 ところが親鸞は、自力のはからいを捨てたところに他力の念仏を見出したわけで、どんなに凡人が頑張ってみたところで、仏の偉大な力には及ぶべくもなかったことになるのです。 

 だからこそ念仏は、どんなに人間が説明しようとしたところで、理屈で割り切れるようなちっぽけな内容を持ったものではなかったのです。すなわち、人間の言葉や思想を超越したしたところにこそ本願力の本義があるのです。                    

      【 『親鸞の人生訓』 花山勝友  PHP  】             

 

 上記では、義=教義という意味で書かれています。また、「念仏には無義をもって義とす」とありますが、これは「念仏には義なきを義とす」とも表現されます(『浄土真宗聖典』)。

そして、ここで義とは「はからい」(物事がうまく運ぶように考えて処理すること)という意味と、「本来の意義」という意味で使われています。つまり、「念仏には無をもってとす」=「念仏にはなきをとす」(人間のはからいを交えないことを本来の意義とする)ということになります。                      

 すなわち、念仏とは人間の理性や知恵で考えたような意味づけがないということであり、「人間の言葉や思想を超越した」ものであると言えるでしょう。            

 念仏には無義をもって義とす。( Concerning the Nembutsu, no working is true working.)