The Subject Should Be Amida Buddha After All(主語はやはり阿弥陀さま)
前に私は「おひとりさま」というタイトルでこのブログに書きましたが(2012-12-19)、その時も含めて今も、実際はいつでも阿弥陀さまと一緒なので、気持ちとしてはいつも「おふたりさま」だと思っています。
そこで、「私はいつも阿弥陀さまと一緒」という言い方と、「阿弥陀さまはいつも私と一緒」という二通りの言い方を改めて考えてみました。以前は両方とも同じように思われて、特に気にかけなかったのですが、よくよく考えてみますと、「私」を主語にする場合と、「阿弥陀さま」を主語にする場合とでは、私の気持ちに微妙な違いがあることに気がついたのです。
私が喜怒哀楽の煩悩で心が占領されている時は、阿弥陀さまの存在をすっかり忘れていますので、阿弥陀さまは心の中では不在です。でもそういう時のほうが多いのが私の心の状態です。ですから、このような時は「私はいつも阿弥陀さまと一緒」と思っても、「今はお留守だけれども通常は一緒です」と言っているようで、なんだかしっくりきません。
しかし私の心の状態がどのようであれ、そんなことには関係なく、常に私の心の中にいて下さるのが阿弥陀さまです。だから「阿弥陀さまはいつも私と一緒」と言う方がしっくりきます。そして気持ちが乱れている時などは、こんなお粗末な私なのに絶えず一緒にいて下さるのだと我が身を反省できますし、阿弥陀さまのご恩をより一層感ずることもできます。
このようなわけで、主語はやはり「阿弥陀さま」で、「阿弥陀さまはいつも私と一緒」(いつもおふたりさま)という言い方がふさわしいと思うようになりました。
My impressions:
Here are two sentences; one is ‘I am always with Amida Buddha,’ and the other is
‘Amida Buddha is always with me.’
I thought a while ago the meaning of the two was the same, but have recently found
there is a subtle difference between the sentences. According to the difference of the
subjects, ‘I’ and ‘Amida’, I have begun to feel that of the meanings of the two
sentences. My mind is usually so often covered with blind passions that in such a
case I can't feel the existence of the Buddha in my heart. So it seems to be
inappropriate to say, “I'm always with Amida Buddha.” But the fact is that whether
or not my mind is veiled in blind passions, the Buddha is always with me. That's why
I think the subject should be ‘Amida Buddha’ and that the sentence ‘Amida Buddha
is always with me’ is appropriate.