お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Proof of Birth Having Been Settled(往生の定まった証拠)

 信心をいただくということはお浄土参りの証拠が手に入るということです。疑いようがないものに命のある間に出会うということです。この証拠に出会えない宗教は、真の宗教ではないと私は思います。死なないようにしてくれる方法はありませんかと言う問いに答えられるか否かで本当の宗教とそうでない宗教の区別が分かるのです。浄土真宗の御利益は何かと言ったら、それは死なないという御利益です。南無阿弥陀仏の人は死にません。死ぬ死ぬというのは南無阿弥陀仏が信じられないからです。 (途中省略) 「死なずに浄土に参る」と言った人が浅原才市です。たいていの人は死んでお浄土に参ると思っています。この世で死んで、それからお浄土に参ると言うのがふつうです。ところが浅原才市は、「わたしゃ、しやわせ、死なずにまいる」と言っています。「死ぬということを外してもらった」とも記しています。                                
 才市の言うとおり信心というのは死ぬことがなくなる現実経験のことです。いちばん嫌なことがなくなったということが浄土真宗の御利益です。静かにこのことをお考えになることが大事です。この私は何がいちばん嫌なんだろうか。いうまでもなく死ぬということが嫌なのです。しかし死ぬことだけはどうしても取り去ることは出来ないとあきらめて生きているわけです。ところがよくよく本願を聞いてみたら、このいちばん嫌な死ぬということはもう取り去ってあると、阿弥陀さまははじめから仰せなのです。何時から言っておられるかというと、十劫という遠い遠い昔から言っておられるのです。私がこの世に生まれてくる前からこのことをずっと言いづめなのです。その如来さまの言葉が南無阿弥陀仏の名号であります。
 【 「宇宙の中の自己の救い『歎異抄』後序」 大峯顯 】 

  
 大峯師が言われるとおり、人は一番嫌なことは死ぬことだと思っていますが、この死ぬことだけはどうしても取り去ることはできないとあきらめているようです。
 不思議にも仏法に出会い、阿弥陀仏の必ず助けるという本願を聞いた者からしますと、とても残念なことです。決してあきらめてほしくありません。    
 また師はこう書いておられます。「才市の言うとおり、信心というのは死ぬことがなくなる現実経験のことです。いちばん嫌なことがなくなったということが浄土真宗の御利益です。静かにこのことをお考えになることが大事です」と。             
 死ぬことはどうしようもないと諦めている人には、是非ともこのことをちょっと立ち止まって、静思してほしいものですね。  
My impressions:
One generally thinks the most detestable thing is to die and they seem to give up
considering death because they believe it can't be helped.
From the standpoint of those whose ‘shinjin’ has definitely been settled, it is a very
regrettable matter. I do want them never to give it up but to think it over.