All Lives Are in the Same One Life(命一つ)
どの命もみな同じ一つの命の中で営まれ、その命を生きているのです。花の命、鳥の命、私の命、それらはそれぞれ別々の個体の形の中にあるにもかかわらず、命というところでは何の変わりもありません。一つに溶け合い、垣根なく通じ合っています。その通じ合っているところを指して親鸞聖人は、「帰命無量寿如来」「南無阿弥陀仏」とおおせられたのでしょう。
親鸞聖人にはこんな和讃があります。
無碍光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり
一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
これらの和讃を読むと、阿弥陀如来をたのむという親鸞聖人の浄土真宗が、硬直した偏狭で排他的な一神教の世界ではなく、実に伸び伸びした世界であることがよくわかります。阿弥陀は阿弥陀という一つの実体の形を持たず、変幻自在に宇宙の森羅万象の上に表れているというのです。桜の花にも、飛んでいる鳥や蝶にも、草や木にも自由自在に化現され、十方の衆生を摂取して一人も捨てないという広大無辺の慈悲を知らせようとされるのです。
私たちのこのはかない命は、はかなくない命といつも一つなのです。阿弥陀さま自身が美しい桜の花となって、そのことを私たちに知らせてくれるように思います。
【 「命ひとつ」___ よく生きるヒント 大峯あきら 】
お釈迦様が、「山川草木悉有仏性」と言われたことを、親鸞聖人は上記の二首の和歌によって表され、またその和歌の心を、大峯師が詩人としての眼を通して表現されているように思われます。特に、阿弥陀様は咲いている花や、飛んでいる鳥や蝶、そして草や木など森羅万象の上に変幻自在に化現されて、自身の広大無辺の慈悲を知らせようとされているのだということ。このことが、卓越した鑑賞眼を持っておられる師の生き生きとした描写によって、より鮮明に伝わってくるように感じます。
一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
Beams of light, thirty-six hundred
Thousand billion in number,
Shine brilliantly from within each flower;
There is no place they do not reach.
(訳:「英訳親鸞聖人著作集」より)