お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

浄土への移籍 (The Transfer of One’s Name in the Resister to the Pure Land)

 弥陀の誓願不思議を信じたとき、そのとき私たちはもうお浄土への道のスタートに立ちます。成仏の道路は往生でありますが、その往生の道路は信の一念から始まります。だから、阿弥陀さまを信じて生きている人は、もうお浄土へ向かっているわけです。毎日毎日、一瞬一瞬がお浄土へ向かっている。身体は娑婆にいるけれど、心は浄土に移住します。善導大師が「般舟讃」の中で「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意 『親鸞聖人御消息』七五九頁)とおっしゃったように、信心の人はお浄土に籍が移ったのです。身体を持った私の籍は京都市なら京都市にありますが、それは生きているあいだだけの私の戸籍であります。そんな籍はしばらくしたらなくなるわけです。私の籍だけではなく、京都市もやがてなくなります。日本も地球も、いつかは跡形もなく消えてしまうでしょう。それでも、私の存在そのものの籍は永遠のお浄土へ行っているわけですから、移籍した私は決して消えることはありません。お浄土は、生まれも死にもしない清浄の世界ですから永遠です。罪悪深重の凡夫が、阿弥陀さまを信じたとき、凡夫の存在の籍はもうそちらへ移ってしまう。この移籍の大事件が信の一念の瞬間に起こるわけです。

   【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上 大峯顯 本願寺出版社  】

 

 善導大師は「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言われました。つまり、阿弥陀さまを信じて生きている人の身体はこの世にあり、戸籍もあるけれど、心は浄土にある。即ち、信心の人は浄土に籍が移っているのです。

 宇宙間に存在する森羅万象、生きとし生ける物も、娑婆も、地球も、太陽もいつかは消滅してしまいます。それでも、信心の人の命や籍は消滅しません。永遠の世界である浄土に存在するからです。

 遠大な未来の姿が推し量られるようで、感動を覚えます。( I am moved because I can

suppose a great state of things in the future. )