お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Realizing Shinjin(信心ということ)

 先日、第4回真宗合同布教大会の動画がネット配信されました。その中で本願寺派の石田智秀氏(北海道・妙法寺)の「信心」についての説法が心に残ったので、その内容を簡単にまとめてみました。                 


(まとめた文)                             
 「聞即信」とは「聞いたそのまんまが信心です」という意味です。それでは「何を聞くのか」を明らかにして「聞即信」を言いかえると、「『阿弥陀様が私の分の修行を全部阿弥陀様の側で完成させて、その証拠を私に「南無阿弥陀仏」で届けて下さっている』と聞く、そのまんまが信心です」ということになります。                     
 しかし石田氏にはどうしても「聞いたそのまんまが信心」であるということが分からなかったといいます。それで自分が分かるように180度言い方を変えて「『阿弥陀様が私を必ず救って下さると聞く、そのまんまを‘私が’信じる』のが信心です」と理解することにしたのです。この理解の仕方はずっと続き、「信心」は依然として分からないままでした。

  
 しかしある時転機が訪れたのです。氏が龍谷大学の大学院生であった時、ある寺で説法の前座を勤めることになり、「信心」について説法をする機会を与えられたのでした。氏は「私がどうやって信心を獲るのか」「私がどうやって阿弥陀様に救われるのか」を一生懸命話しました。しかしその時、聞いている人たちの心がだんだん遠くへ離れていくのを感じていたといいます。

  
 話を終えた後、部屋の隅に座っていると、先輩の布教使の方が声をかけてきました。「石田君、君の話を聞いていて、どうもおかしいと思うところがあるんだけど…. 。君は聖教をよ〜く読んでから話をしたのかね。君は『私がどうやって信心を獲るのか』『私がどうしたら阿弥陀様に救われるのか』ばかりを話していたけど、聖教のどこにそんなことが書いてある?聖教には『阿弥陀様がどうやって私を救うのかばかり書いてあるだろ?』」と言われたのでした。


 これを聞いた時、氏は「あぁ、信心とはそういうことだったのか」と「聞即信」の意味を初めて知らされたのです。そして「阿弥陀様が私を救って下さる」とは何回も、何回もずっと聞いていたのに、実は全く聞いていなかったことに気づいたのでした。「‘私が’つかもう、つかもう、としていた」のだけれど「‘阿弥陀様が’すでにずっと前から私を捕まえていて下さっていた」ことが、初めて知らされたのです。                  
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 振り返ってみれば石田氏の話は、私も「‘私が’どうしたら信心を獲られるのか」「‘私が’どう聞いたら救われるのか」、とずいぶん自分の中で悶々としていたことと重なります。 
 更に石田氏は「信は願より生ず」という親鸞聖人の言葉を挙げて、「信心は阿弥陀様が起こされるもの」で、「信心は私が起こすものではない」ということも話されました。全くその通り、と改めて思った次第です。とても意義ある説法でした。

 
「聞」というは衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。教行信証
The word hear means that sentient beings are perfectly free of doubt, having heard
why the Buddha's Vow arose, its origin and its fulfillment. This is to hear.