お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Freedom(自由)ということ②

 「自由」の意味を改めて辞書で調べてみますと、「一般的には責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと」(広辞苑)とあります。私たちは時間や仕事、家庭、個人をとりまく社会との関わり等は避けて通れませんから、これらが束縛の源になります。

 
 しかし、親鸞聖人は言っておられます。「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」

( Foolish beings : we are full of ignorance and blind passions. Our desires are
countless, and anger, wrath, jealousy, and envy are overwhelming, arising without
pause; to the very last moment of life they do not cease, or exhaust themselves.)                              
 このことから、外面的な束縛から解放されても、この内面的な煩悩が最大の束縛となり、この煩悩からの自由がない限り、真の自由は得られないことになります。

   
 最近では、この煩悩を静めるための指南書とでもいうべき色々な本が書店に並んでいます。例えば『ブッダのひと言』という本では、「怒って当然な時ほど自制する」「欲は芽の内に根から抜く」「布施の心で心をほぐす」「心を変えて運命を変える」等、お釈迦さまの教えから煩悩を静める方法を教えています。お釈迦様の教えですから、確かに言葉通りに実践していけば、怒り、欲望、不安等は軽減されるでしょう。しかし軽減されるまでの過程には相当の努力が求められます。そして今度は、その努力しなければという気持ちが障りになってきます。 

  
 このようなことを考えますと、浄土真宗の教えは自分を厳しく律して努力していかなければならないということがないので、本当に心が和らぐのです。何故なら、阿弥陀さまが完成された「南無阿弥陀仏」を受け取るだけで、私の煩悩はすべて如来にお任せすればいいからです。如来が煩悩の障りを軽減し導いて下さいます。私は導かれるままに進めばいいのです。即ち「南無阿弥陀仏」の力によって煩悩の束縛が解かれ、「南無阿弥陀仏」の力によって真の自由が得られるといえるでしょう。全く有り難いことといわねばなりません。