お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Biography of St. Shinran(親鸞聖人の伝記)

 親鸞はこの越後時代に二度目の妻を娶(めと)って、その間に慈心房善鸞が生まれたが、母は早く世を去った。この善鸞の母がどんな素性の、どんな人であったかは記録が伝わっていない。そして第三の妻を迎えたのが、一生涯親鸞の室として一番長く連れ添った恵信尼であって、これは記録や、消息類が多く遺(のこ)っており、史実として確実である。   
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 つまり親鸞には一生を通じて三人の妻があり、七人以上の子があったわけであるが、父子の縁もまた薄く、流罪前の妻の子今御前(いまごぜ)、即生房(そくしょうぼう)とは流罪後ほとんど一緒に暮らした事はなく、帰洛の後に逢って見れば生活にも困っている始末、末娘の弥女(いやにょ)とも幼少の時別れ、これは他人の妾となったり、女中奉公をしたりして、晩年帰洛後まで親鸞を悩ましつづけ、慈心房も恵信尼の継子(ままこ)である事も因をなして父に背き、ついに勘当となるといった有様、益方(ますかた)、小黒(おぐろ)の女房らは恵信尼がいるのと、国府あたりに親戚、身寄りもあって、どうにか生活して行ったが、これとてもとても安らかに暮らしていたという訳でもない。妻とは離別、死別、そして別居、子供とはちりぢりに別れ、義絶などして、その家庭生活というものは、薄倖(はっこう)な、むしろ悲惨なものであり、一生悩みの種であった。     
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 親鸞の伝記をただ美しく、理想的にしようとして、玉日(たまひ)をこしらえ、朝姫をつくり、一生一人の妻であったように装い、その上門閥的粉飾を加え、慈心房や、覚信尼の事などはなるべく隠蔽(いんぺい)して、道徳円満な祖師をこしらえ上げようとすることは、親鸞の嘗(な)めた現実苦を冒瀆(ぼうとく)するものであり、浄土真宗の本旨と合わないものである。                                   
 われわれはむしろ親鸞の現実苦の前にこそ跪拝(きはい)し、その業報の中での救済の自覚にこそ、浄土真宗の最も本質的な部分を感得すべきではないか。
( Should we rather kneel down to pray, thinking about St. Shinran’s actual pains? And should we realize the most essential part of Shin Buddhism through knowing salvation in the results of karma?)

    【 「法然親鸞の信仰(下)」 倉田百三 】          
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 親鸞聖人は35歳の時、専修念仏の停止により越後へ流罪に処せられました。いわゆる承元の法難と言われるものです。しかし聖人の越後時代の史実は非常に少なくて甚だ不明であると言われています。                 
 上記後半部分の「親鸞の伝記をただ美しく・・・」以下に書かれているように、史実に粉飾を加えることには賛成できません。筆者の趣旨に同感です。