お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

人に信ぜしめることの難しさ(The Difficulty Having People Believe in Buddhism) 

 自信教人信(じしんきょうにんしん) 難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)(自らも信じ、そして、人にも信じてもらうことは、最高に難しいことです恵信尼消息』   

 自分自身が信ずることすらなかなかおぼつかないのに、そのような信仰を他の人々に抱いてもらおうとしても、なかなかできないものです。                 

 この世の中には、科学的に証明することができたり、眼で見たり、手で触ったりすることができるものがたくさんありますが、こういった場合には、相手を説得することは極めて簡単でしょう。ところが、宗教における信仰ということになりますと、崇拝の対象としての仏や菩薩、神といった存在を証明することはできません。ましてや、いくら阿弥陀仏の本願による一般大衆の救済といわれてみても、なかなか信じられないものです。        

 “なぜ?”“どうして?”といった疑問が湧いてくるのは当然でしょうし、いったん疑いの心が生まれてしまいますと、信じることは更に極めて困難になります。すると、そのことを他の人々に信じさせるなどということは、もっと難しくなってしまうことになります。 

 親鸞は、自分自身の心とも葛藤しながら、自分自身を成長させ、それとともに、多くの人々に「阿弥陀仏の本願」を説いていったのですから、どんなに困難だったことでしょう。  

       【 『親鸞の人生訓』  花山 勝友  】              

 

 この文から思うのですが、私自身にとりましても、信ずることの難しさは身に染みて感じています。仏法は聴聞が第一と言われますが、この「聞くこと」(信ずること)は、とても難しいものです。私も、どうすれば、どのように聞けばいいのだろうと、悶々とした日々を過ごしたことを思い出します。                           

 「自分が信じることさえ難しいのに、他の人々に信じてもらうことは一層難しいに違いありません (It is quite difficult that even one’s own self believes in Buddhism, but

it must be more difficult for him to have the others believe in it.)」          

 しかし、法然上人や親鸞聖人、蓮如上人といった方々のお働きにより仏法は広まりました。ひとえに、これら善知識方の並々ならぬ尽力があったからです。            

下記リンクで、信ずることの難しさについて書いています。よろしければどうぞ。   

  https://miko415.hatenablog.com/archive/2014/03/14 (信心ということ)