The Death of St. Shinran(親鸞聖人の死)
親鸞は京では一処不住の生活で、入滅まで二十幾年間、念仏のひまには写本と、著述をし、ときどき訪ねてくる僧侶や、俗人と法談を交え、関東から来る消息に懇ろな返事を書きなどしたが、寺も建てず、教団もつくらず、著述には没頭したが、積極的に、人を集めて説法をするというようなことはなかった。
(略)
親鸞は九十歳まで生きる人だけに普段は至って健康であったが、弘長二年十一月の下旬から少し具合が悪く、これという病気ではないが、老衰で急に病が革まり、十一月二十八日に、ついに、その苦労の多かった長い生涯を閉じた。
越後の恵信尼はすでに老齢で上洛はかなわなかったが、代わりに益方ははるばる上洛して父の臨終に遇うことが出来た。それから弥女(覚信尼)も在京の事として臨終に侍した。門人では顕智、専信、了阿ら数人が臨終に立ち会うた。 (略)
親鸞の葬儀は、当時三条坊門の北、富小路の西にあった善法院から出棺して、加茂川を渡り東山の麓、鳥辺野の南、延仁寺で荼毘にふせられ、遺骨は同じ山つづきの大谷に埋められた。
「われ死なば、骸(むくろ)は加茂川に入れて魚に与うべし」親鸞はこう遺言したと言われている。( Saint Shinran is said to have stated in his will, “ If I die, please
put my body in the Kamo River and give it to fish.”)
【 「法然と親鸞の信仰(下)」 倉田百三 】
晩年の聖人は、常に念仏と共に仏の教えの中に身を置き、静かに過ごされていたようです。穏やかな姿が偲ばれます。
しかし、聖人が遺言された「親鸞閉眼せば、加茂川に入れて魚に与うべし」の言葉には、聖人の信心に対する隔絶した厳しさが感じられます。これについて本願寺第三代宗主の覚如上人は、「改邪鈔」の中で次のように言われました。「これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆえなり。これをもっておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし」
一番大事なことは信心であると強調されています。次に、現代の人たちが見習うべき葬儀のあり方の原点とでも言うべきことが説かれているようにも思います。