お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

『明日をひらく「一期一話」』(8)

          (3)おしえ
 実家の母が病床の中、生気を失った顔で「さみしい」と言った。その時の声が今も耳の底に残っています。その時は傲慢(ごうまん)にも「死を前にして困ったことをいうなあ」と思いました。しかし、その声は私に「そんな生き方では、最後はさみしいと言って死んでいかんなんぞ」という叫びだったのだと思います。
 あなたはそれで死にきれますか。どんなに辛くても悲しくても尊ぶことのできるいのちに出あっているのですか。自分の背負っている事実をきっぱりと引き受けて歩いていけるのですか。死ぬことを忘れて生きている私に生を問い返す、尊い声であったのです。(p.143)(かほく市 浄専寺前住職 平野道雄)      
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 「さみしい」という平野師のお母さんの言葉。死を前にしての言葉とあれば、さみしさの度合いが違います。その言葉は、聞く者にとっても耐え難いものではないでしょうか。  
 臨終に後悔しないために、平野師は「どんなに辛くても悲しくても尊ぶことのできるいのちに出あっているのですか」と問うておられます。                  


 「はい、出遇っています」と答えられる人に、誰もがなりたいですね。それが阿弥陀さまの一番の願いなのですから。                   
( I’d like everybody to become a person who can answer “Yes, I’ve already met
Amida Buddha.” That is because the Buddha truly wants the very answer.)