お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Our Parents and Brothers and Sisters in Transmigration(世々生々の父母兄弟)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(As for me, Shinran, I have never said the nembutsu even once for the repose
of my departed father and mother.)
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 私はこれまで自分の父母の孝養ためと思ってお念仏したことは一度もない。何故かと言ったら、何もこの世の自分の親兄弟だけじゃなくて、すべての人間、すべての生き物は、本当は「世々生々(せぜしょうじょう)の父母兄弟」だからと言うのです。たとえば今、空を飛んでいるトンビでも、この私と決して無縁ではないわけです。生まれてくる前の世では、そのトンビと私とはひょっとしたら父母兄弟であったかもしれません。それはそうですよね。世界にはたくさんの人間がおったり、トンビがおったりするのに、その中の唯一羽のトンビがたまたま、自分の頭の真上でピーヒョロロと鳴いた。これはよほど深いご縁が無いとそんなことは起こりえないでしょう。もし自分がその場所へ五分後に行ったらもうそのトンビに会えなかったわけです。するとあのトンビと自分とは遠い過去世の縁があったということになりますね。                               
 そういうわけで、今生の父母兄弟だけでなく、すべての生きとし生けるものは、みんな生まれ変わり死に変わりする魂の永遠の遍歴の中では、ある時は兄弟であったかもしれない、ある時は父母の因縁を結んだかもしれない間柄なのです。               
   【 『弟子一人ももたず「歎異抄」第六条』 大峯顯 百華苑 】  
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 冒頭の「親鸞は父母の・・・・・いまだ候はず」は、第五条に出てくる言葉ですが、大峯師は「ただ自分の母とか自分の父とか言っているのは、非常に狭い硬直した世界観、自分の我を中心にした生命の考え方であって、お念仏の世界はそういう小さな自我、エゴイズムを離れた世界だ、というのが聖人の浄土真宗の面目であります」と、上文に続いて解説しておられます。                                    
 それにしましても、すべての生きとし生けるものが、世々生々の父母兄弟のごとく因縁があるとは、生けるものの生の背後にある奥深さに感心させられます。と同時に、仏教の教えの深さ、ひいては阿弥陀仏の救いの対象の広さ、念仏の世界の広さに驚嘆するばかりです。 


※ 生々世々(しょうじょうせぜ)[広辞苑]
  生れかわり死にかわりして世を経る意。現世も後世も。永劫。