お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

「行い」と「心」は離れずにあるもの (“ Action” and “ Heart” Are Not Separate with Each Other)

  行をはなれたる信は、なしとききて候ふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし(末灯鈔

 親鸞は行(念仏)と信(信心)は表裏一体のものであると考えていました。信心のない念仏も、ニセモノであるということです。「念仏には無義をもって義とす」という言葉もある通り、他力の念仏は「念仏をすれば罪がなくなる」「浄土にわたるために念仏をする」というように、自分の都合で行うものではありません。そして、信心もまた自分で起こすものではなく、仏さまからいただくものなのです。

 私たちの日々の行いも、心が伴わなければ空虚なものとなります。普段の仕事にどれだけ心をこめられているでしょうか。相手への「ありがとう」という言葉ひとつにも心をこめれば、自分の気持ちも晴れやかになるでしょう。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 上記に「念仏には無義をもって義とす」という言葉があります。とても分かり易く説明されていますが、この言葉の意味を浄土真宗聖典(註釈版 第二版)P.1485 にも、[義なきを義とす] という言葉で、「本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とする」という意である、と書かれています。

 親鸞聖人は、念仏と信心は表裏一体であると考えておられましたから、どちらも自力ではなく他力です。また、信心は仏さまからいただくものですから他力です。

 また、私たちの日々の行いと心について書かれていますが、「行い」と「心」は、お互いに離れずにあるものですから、どのような行いも心をこめてすれば、晴れやかな気持ちになるものだと思われます。実践したいものです。