お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Meeting Up with the Cicada(蝉との出会い)

 今夏は猛暑続きで、「危険な暑さ」という言葉もしばしば使われているほどです。そのような中、どうしても避けられない用事があり、先日徒歩で出かけたことがありました。帰りが昼頃と重なり、太陽はほぼ頭の真上にあり、日陰の少なさが恨めしく思われたほどです。でも、道路沿いにしばらく続く並木道にさしかかると、絶好の日陰になっていてホッとしました。蝉達にとっても過ごしやすい場所であったのでしょう。葉っぱの茂みからは賑やかな鳴き声が聞こえていました。と、その時、一匹の蝉がこちらに向かって飛んでくるのでした。急ぐ風もなく、むしろゆっくりと落ち着いた様子で・・・。そして、私のかぶっている白い帽子の目庇(まびさし)の縁(ふち)にちょこんと止まったのです。「えっ」とビックリすると同時に「可愛い!」と思いました。手でつかもうとしても逃げようともせず、一層可愛さが募りました。そっと捕まえて木の幹に止まらせると、ゆっくりと2歩、3歩と上の方へ上り始めたのです。が、間もなく飛び去っていきました。                          
 ほんのつかの間の一コマでしたが、何かしら蝉が優しさといったものを運んでくれて、暑さが少しだけでも和らいだような気分になりました。                 


 この蝉との出会いから思い出されたのは、「世々生々(せぜしょうじょう)」という表現を使われた親鸞聖人の言葉です。聖人は『歎異抄』第五条の中でこのように仰っています。 


 「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」                
( All sentient beings, without exception, have been our parents and brothers and
sisters in the course of countless lives in many states of existence. )


 この意味を、大峯顯師は自著『弟子一人ももたず「歎異抄」第六条』の中で次のように述べておられます。「今生の父母兄弟だけでなく、すべての生きとし生けるものは、みんな生まれ変わり死に変わりする魂の永遠の遍歴の中では、ある時は兄弟であったかもしれない、ある時は父母の縁を結んだかもしれない間柄なのです」と。              


 私とあの時出会った蝉とはとても深い縁があるに違いありません。それにしても、あのような出会いは今生ではもう二度とないだろうと思いますと、不思議な気持ちでいっぱいになるのです。                                   

※ 生々世々(しょうじょうせぜ)『広辞苑
 生まれ変わり死に変わりして世を経る意。現世も後世も。永劫。