Not Having Even a Single Disciple(弟子一人ももたず)
たくさんのお弟子たちがおられたにもかかわらず、聖人は「親鸞は弟子一人も持たず候」とおっしゃるのです。それは何故かというと、これらの弟子たちは何もこの親鸞の力によってお念仏に帰したわけではない。ひとえに如来さまのはからいによって念仏に帰しただけのことであって、親鸞個人の力やはからいはそこに微塵もはたらいてないということです。阿弥陀様の力のお蔭で念仏しているのに、あの人は私のおかげで念仏に入ったのだから私の弟子だと主張する、そういうことを言うのはとんでもないことだと言うのです。(p.11、3〜9行)
【 『弟子一人ももたず 「歎異抄」第六条』 大峯顯 百華苑 】
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この何故「弟子一人ももたず」なのかという理由を大峯師は次のようにも仰っています。「もし人間の力で人をお念仏させることが出来るんだったら、それは弟子と言ってもいいでしょうけど、だいたい人間が人間を救うことなんて出来ないんです」(P.30より)
弟子に対して師と呼ばれる人は、弟子が仏法を聞く縁にはなり得ても、救い念仏させることは絶対にできないということで、親鸞聖人が、ご自身のはからいを徹底的に否定された気持ちが伝わってきます。
このような事から、改めて感じることは、
私が念仏することは、ひとえに阿弥陀仏のお働きによるという事実です。従って、念仏が出て下される時、何時でも何処でも阿弥陀仏が遍在されていることを実感するのです。
( It is the fact that I owe my saying the Name entirely to the workings of Amida
Buddha. Therefore, wherever and whenever the nembutsu escapes my lips, I realize
the omnipresence of Amida Buddha. )