お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Saying of the Name Only(専修念仏)

 念仏したら人生が幸せになるとか、人生がもっと豊かになる、そんな功利主義は本当の念仏ではありません。念仏以外に凡夫の生きる道はないんだというのです。お念仏したら人間もよくなってくるし、社会の中でもうまくやってゆけるのだろう。そんなふうに念仏を考えるのは根本的な思いちがいであります。お念仏以外に人間が本当に生きる道はないのだよ、と言っておられるのです。豊かにとか幸福にとか、そんな形容詞はすべて不要です。人生を根源から生きる道はお念仏以外にないのです。お念仏がなかったらどんなに生きようとしても生きられない。生きられないということは、どこまで行っても生死流転を出られないということです。「生きられないと言っても毎日毎日生きてますけど」、と言うかもしれませんが、それはやっぱりだいぶ反省が足りないのでしょう。ご飯を食べて寝て、後は不平や他人の悪口ばかり言っている。これは生きているように思っているだけでの生活です。生物的には生きているかもしれませんけど、命の喜びはすこしもないからです。         
  【 『弟子一人も持たず 「歎異抄」第六条』 大峯顯 百華苑 】        
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 上の文は、『歎異抄』第二条に書かれている、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」                         
( As for me, I simply accept and entrust myself to what my revered teacher told
me, “ just say the nembutsu and be saved by Amida” ; nothing else is involved.)


の部分に対する大峯師の説明です。この文の「ただ念仏して」とは「専修念仏」のことであり、「お念仏以外に人間が本当に生きる道はない」ということだと説明されています。   
 念仏を唱えたら人生が豊かになるとか、幸福になるとか、この世をうまく生きる手段のように思って唱えるのは間違いであると指摘し、念仏の根本的な意義を示しておられます。                                       


 「人生を根源から生きる道はお念仏以外にないのです」。確固たる力強い言葉です。