お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

What Is Buddhist Learning for?(教学は何のためか)

 今の世つまり、唯円在世の頃のお坊さんとか門徒とかは、学問や知識によって、相手を論破しようということばかり考えておるようだけれども、それは大きな間違いじゃないだろうか。そうではなく、学問すればするほど、相手に勝とうじゃなくて、如来様の恩徳の広大さがわかるようにならないと、学問した値打ちがないじゃないかと(唯円は)言うのです。教学の値打ちはどこにあるのかと言うと、自分たちは学問なんかじゃとうてい助からない凡夫だということがわかり、そのことを人々に説くところにある。唯円は教学を否定しているのではなく、教学は何のためにあるのかという問題を出しているのです。所詮、学問によって後生は助からんのだということを、本当に学問した人は知っている。それを知らない人は中途半端な学者なんだということを、唯円ははっきりと書いています。        
 まったく唯円が言うとおりだと思います。学問の値打ちというのは、学問なんかじゃ人間は助からんのだということをわからせてもらい、そのことを人々に対しても言えるところにあるわけです。                                 
  【 『教学は何のためか「歎異抄」第十二条』 大峯顯 百華苑 】         
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 「学問や知識によって相手を論破しようということばかりを考えているようだ」という唯円の言葉からは、唯円在世の頃に、聖道門や浄土門の人々の間で法論が激しく行われていたことが窺われます。                                
 このような状況にあった時、唯円は「教学は何のためにあるのか」ということを、問題提起していたのだと大峯師は言われます。この問いに対して唯円は、「学問では人間は助からないということをわからせてもらうこと、そしてそのことを人々に対して言えること」だと回答しています。                                 


 「学問のための学問」を主張する人たちは唯円のこのような回答を見つけ出すことは毛頭ないでしょう。( Those who assert “ learning for learning’s sake ” would
not at all find out such an answer as Yuinen’s. )