お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

煩悩のしわざ(The Works of Blind Passions) ①

 「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうか ( “ Although I say the nembutsu, the feeling of dancing with joy is faint with me, and I have no thought of wanting to go to the Pure Land soon. How should it be ? “ )」とお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。             

 この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことがよろこべないから、ますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べなのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。[『歎異抄』(現代語版)第九章 ]             

  阿弥陀如来より信心を頂いたからといって、念仏しても、さほど喜べないし、浄土へも、急いで行きたいと思わないのはどうしてだろうと、疑問に思う人は私も含め、多いのではないでしょうか。しかし、喜べないのは煩悩のしわざであると親鸞聖人は教えてくださいます。そして如来は、そういう煩悩に満ちた私たちだからこそ、哀れみ救って下さるのだと。喜べなくても心配ないんだと、ほっとした気持ちになります。