お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

To Be Proud of the Primal Vow(本願ぼこり)(1)

 阿弥陀様はこのままで救ってくださる、どんな悪を持っていても阿弥陀様は決してそれをいけないとおっしゃらない。悪をやめられない凡夫だからこそ必ず助けるというのが、誓願の心だと聞かされている。これはその通りなんです。ところが、それをありがたいと思わないで、もっと悪いことをしたほうが阿弥陀様は助けやすいんじゃないかという、自分の余計な計らいをそこへ差し込んでしまう人びとがいたのです。しかし、これは本願ぼこりじゃやなくて、正確に言うと罪悪ぼこり、罪業ぼこりなんですね。つまりこれは自分の悪についての邪執であります。                               
 (略)                                     
 唯円によれば、「本願ぼこり」とは本当は自分にかけられた本願を光栄に思う、たのもしい本願を誇りに思うということであります。本願ぼこりというのは自分のことは誇らないで、弥陀の本願を誇ることです。ほれぼれと如来の本願に罪悪深重のわが身を任せていく。これが本願ぼこりの真意だと唯円は言うんです。煩悩具足の凡夫である以上、誰ひとりこの意味での本願ぼこり以外に生きる途はないではないか。これこそ他力の信心の徹底した姿だと言っているんです。                              
  【 『宿業と自由「歎異抄」第十三条』 大峯顯 百華苑  】          
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 唯円在世の頃には、「阿弥陀様は悪人ほど助けてくださる」のだからと、わざと悪を作っていい気になっていた人びとがいたようです。このような人の態度を指して本願ぼこりと言ったのだといわれます。                             


 唯円は、このような間違いを正して、真の意味の本願ぼこりとは、「自分の悪を誇らないで、弥陀の本願を誇ること」であると教えています。                 
( Yuinen, correcting the wrong understanding like this, teaches that the true
meaning of “hongan bokori” is not to take pride in self’s evils but to be proud
of the Primal Vow of Amida Buddha. )


 つまり、罪悪深重のわが身をそのまま助けると言われる阿弥陀仏の本願に自分の計らいを差しはさむことなく、ありのままの自分をお任せすることが本願ぼこりの真意だと教えています。


 それにしても、「もっと悪いことをしたほうが阿弥陀様は助けやすいんじゃないか」とは、私たち凡夫の計らいが如何に強いかを思い知らされます。