お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

To Be Proud of the Primal vow(本願ぼこり)(2)

 宿業とは、人間存在の底無き底のことです。その宿業というものを我々は、いかなる仕方によっても抜け出ることはできません。ところが、この宿業が不思議なことに如来の本願力によって断ち切られていくのです。だから宿業があるといって少しも心配しなくていいわけです。その宿業の力よりも如来の本願力の方がはるかに強いから、そのたのもしい本願力に宿業のまんま任せ切ることを唯円は「本願ぼこり」と言うのです。それ以外に我々に何も誇れるものは無いからだというのです。ほかにいったい何を誇ろうというんだ?誇るべきものを私たちは何ひとつ持ち合わせていないじゃないか。ただ如来様の本願のたのもしさを誇り、これに任せる以外に我々の生き方はないというのですね。           
  【 『宿業と自由「歎異抄」第十三条』 大峯顯 百華苑 】           
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 「宿業」の意味を『浄土真宗聖典』(p.1495)には次のように書かれています。「過去世に造った善悪の業のこと。これは過去世になした行為が原因となって、今生のあり方が規定されているという考えにもとづいている」。大峯師はこのことを「宿業とは、人間存在の底無き底のことです」と表現されています。                      
 ここから、前回(1)で書きました本願力に「ありのままの自分を任せる」とは、別の言い方をすれば「宿業のまんま任せ切る」ことだと言えるでしょう。           
 また、唯円の時代の人々が間違えて捉えていた本願ぼこりの正しい意味は「阿弥陀仏の本願のたのもしさを誇る」ことであることも、より鮮明に伝わってきます。        


 「宿業が如来の本願力によって断ち切られていく」。本願力のこの上ないたのもしさを感じます。(“Our deeds from the distant past are severed by the power of
Amida’s Primal Vow.” I feel its supreme reassurance deeply. )