どんなことでもしてしまうのが人間 (It Is Man Who Does Anything)
さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし 『歎異抄』第十三章 (そのような因縁があれば、どんなことでもしてしまいます)
“運命論”といわれる思想がありますが、これは、すべての行為は、目に見えない何ものかによって支配されている、といった考え方でしょう。仏教における因縁論も、いかにもこの運命論と似ているようにも見えますが、一つだけ大きな違いがあります。
それは何かといいますと、確かに現在行っている行為のすべては、過去のすべての行為である“縁”によって規定されている、という点では同じなのですが、因としての自らの意志をも認めている点なのです。すなわち、過去の行為によって確かに大きな影響を受けているのではありますが、単にそれだけではなく、その与えられている環境の中で努力するかしないかが、将来のその人の縁を作ってゆくのです。
したがって、どんなことでもするのが人間ではあっても、そのような自分に気づくのと気づかないのとでは、それ以後の行動が違ってきます。それに気づいた人は、何とかしてそこから逃げ出したい、と願うことになり、さしのべられている阿弥陀仏の救いの手を頼りにするようになります。
【 『親鸞の人生訓』 花山勝友 】
ここで、「因縁論」と「運命論」、この二者の違いが明らかに示されています。仏教における因縁論では「因としての自らの意志をも認めている」こと、すなわち「その与えられた環境の中で努力するか、しないかが、将来のその人の縁を作っていく」のであると説明されています。よって、自分の運命は決められたものではなく、変えることができるということです。
従って、「縁さえあればどんなことでもしてしまうのが人間です( If the karmic cause
so prompts us, we will commit any kind of act. )」が、そのような自分に気づき、(自らの意志で)悪い環境から抜け出そうと努力すれば、運命を変えることができるのです。
因縁論があってよかったというのが偽らざる気持ちです。