お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Being Believed in(信じられている)

 私たちが生きていく上で、人と人との信頼関係が築かれなかったら、社会生活は成り立ちません。私が他人(ひと)を信じられるか、そして私も信じてもらえるか、人と人との相互関係がとても大切になってきます。そして、相手を信じることができ、私も信じてもえるなら、それが力となり、喜びとなります。   
 ここで、「信じる」という両者の関係を、私と阿弥陀仏との間に置きかえて考えてみました。                                       
 私は、阿弥陀仏に出遇うまでは、阿弥陀仏の必ず助けると誓われた誓願を、どうしたら信じることができるのかと、信じよう、信じようとしていました。すなわち、私の方が一方的に阿弥陀仏を信じるもの、と思っていたのです。でも、それは間違いでした。次の親鸞聖人の御和讃から明らかです。         
  弥陀成仏のこのかたは                         
  いまに十劫とときたれど                        
  塵点久遠劫よりも                           
  ひさしき仏とみえたまう(浄土和讃)                  


 阿弥陀仏は、塵点久遠劫の昔(無限の過去)に覚りを開かれました。このことは、私を助けることができる者と見抜かれ、必ず助かってくれると、信じて下さっていた証しです。そして、信じる力などない私に信じる力まで与えて下さっていたのです。        

 阿弥陀さまに信じられている。この事実は、大きな喜びであり、生きる力のゆるぎない源泉です。( I am believed in by Amida Buddha. This is great joy to me and the
source of the power for me to live. )